解決済み
秀吉の朝鮮出兵は武士の人数を減らして給与削減するためという説があります。どう思いますか。
給与削減は誤解を招きますね。人件費削減です。
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あまりその説は信じませんね。 秀吉の唐入り計画は九州征伐の頃には言及されています。 そして、唐入りの先兵となるべく四国や九州北部に配置された大名は秀吉の古参・子飼いの部下たちです。豊臣家の中核となるべき部下たちであり、多くは小身からの大幅加増でした。わざわざ抜擢した彼らの力を削ぐ目的があったとは思えません。 また雇用対策、部下の領土欲を満たすのが目的という説にも反論します。 秀吉の進めた検地・兵農分離政策や大名の転封は、全国の大名を統制するための政策と位置付けられていますが、同時に、武士を土地と切り離すことで長期遠征に耐えられる機動性の高い軍隊を作り出す軍拡政策でもあります。 秀吉は全国を統一してもなお、島津氏など外様大名に対しても内政に干渉してまで家臣団の給地替えを指示しており、軍拡する気満々に見えます。むしろ秀吉が天下人となってから、故郷から切り離されて帰農できない兵士が増加したのではないかと思います。 一方で、前述のように九州北部を治めた大名たちは、秀吉が小身から大抜擢を行った者たちで、身の丈に余る昇進で所領を支配するためのスタッフすら足りない状態でした。この時点ではさらなる領土欲どころではなかったと思います。 そして彼らは出兵にあたり、当時の通常動員を超えるほどの軍役を課されています。 彼らは朝鮮で人狩りを行い日本に大量の奴隷を連れ帰っていますが、これを見た従軍僧の日記には「日本の百姓不足を朝鮮人で補い、補った分、日本の百姓を徴兵する」という主旨のものが記載されており、余剰していた傭兵では賄えないほどの軍役を課していたことを伺わせます。 大名に支配される国人レベルで見ても、九州征伐後に一揆が相次いでおり、秀吉流の支配を受け入れる事すら抵抗がある有様で、彼らの要望を吸い上げて海外遠征を企てたともとても思えません。 秀吉の唐入り計画が地道な領土獲得計画ではなかったことはほぼ明らかです。 当初の朝鮮に対しての要求は「明征服の道案内をせよ」です。朝鮮侵攻が始まってのちも、当初は半島制圧は後回しにして、とにかく明国に攻め入れという命令が下されています。 秀吉の戦略が半島制圧に変わったのは、明軍の参戦とゲリラ戦の発生で戦線が維持できず、明征服が実現性を失ってからです。その後の講和交渉では、朝鮮の領有要求からじりじりと講和条件を後退させ、最終的には朝鮮の実質的領有も放棄しています(朝鮮王子を秀吉の臣下として、彼に朝鮮南部を治めさせる形式的な支配関係にまで譲歩しています) ちなみに戦線が膠着してから、朝鮮への兵力増派計画において、関白秀次とその側近たちの名が上がる時期がありました。秀次はこの後間もなく粛清されてしまうので、秀吉が邪魔になってきた秀次を朝鮮に送り込んで処分してしまう計画を持っていたのではないかと考える節もあります。リストラ説はおそらくこのころの世情を反映した資料を戦役当初の動機と混同しているのではないでしょうか。 秀吉は沢山の人士を異国で殺すことには「成功」しましたが、結局実質的な利益はまったく得られませんでした。抹殺そのものが目的であれば、秀吉もそれで満足したのかもしれませんが、やはり目的は達成されなかったのでしょう。慶長の役に突入することになります。
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san********さんが詳しく書かれているので、私は別方向から 唐入りは、軍事費(大船建造なども含む)を臨時の税金で賄っていました 人件費を削減するためなら、臨時税は必要ないと思います 又、領地安堵+渡海はなしの佐竹は、名護屋在陣時の費用ねん出の為に苦労しています 領内では更なる年貢上納を求められてために百姓がボイコットしたからです 渡海しない者も財政面ではかなり追い詰められた状態です
なるほど:1
雇用対策という側面があったのは、事実だと思いますが、 戦死させて人員削減という発想は、無いと思いますよ。 それよりは、大陸に領土を確保して、余剰人員となった武士を、 移住させる事が、目的だったのでしょう。 もっとも、ちょっと戦争をして、有利な内に和睦して、 相手の領地を削減するという、日本国内では通用した、 豊臣家の戦略が、外国では通用しないから、 泥沼化してしまったのだと思います。
秀吉がボケただけ。
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