教えて!しごとの先生
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23卒の大学生です。進路についてです。 長文失礼します。

23卒の大学生です。進路についてです。 長文失礼します。私は文学部の地方国公立大学の3年です。(一人暮らし・女子) 4月から4年生になります。 後期の授業が終わり、大学卒業後の進路について悩んでいます。 前期・後期の授業があるときは ゼミや授業のレジュメつくって発表してバイトして、、と目の前のことを終わらせることで精一杯でした。 ゼミは週1で発表・授業は半期に2回発表で、バイトは月60時間程度です。 全てオンラインでの授業なので同じ学部の友だちとも会える機会があまりなく、周囲の就活事情がわからない状態です。仲良い友だちは院に行くだったり、公務員になるだったりと進路はある程度固まってるようで、就活組は見かけないです。 将来のビジョンが全く描けず、夏のインターンに申し込んで全落ちしてから、インターンにも1回も行っていないです。 両親ともに公務員をかなり強く勧められ、講座代も出してもらいましたが、正直公務員の仕事にあまり興味がもてなかったこと・勉強に追いつかないことで講座にも6月配信だった最初の1~6回を見て手をつけなくなってしまいました。 もともと好きなことを見つけることが苦手で、気になる業界や興味のある仕事も見つけられていません。 これまで進路も両親の言うままに決めていました。 さすがに何も選択肢がないのはまずいと思い、アルバイトで1年間続けているアパレルの会社にそのまま社員として入るのもアリだなあと考えています。(総合職で全国転勤あり) 両親の公務員になって欲しいという圧がかなり強くて怖いです。しかし、私はずっと県内だけに留まるよりも田舎育ちだったこともあり、都会に出てみたいという気持ちがあります。(両親には都会は遊びに行く程度が楽しいんだと言っていて反対されているように思います。) 公務員になるための勉強は何もしてないので、仮に次の公務員試験を受けても落ちてしまうと思います。 就職が決まったらそのまま就職して、全落ちしてしまったらフリーターだったり、実家に戻るだったりして公務員にチャレンジすればいいかなと思っています。 進路や就活についてかなり甘い考えで将来の自分に帰ってくるってことは自覚があります。 しかし、インターンに参加していないこと・両親からの公務員になることへの圧・本当にアパレルの就職でいいのかと葛藤してしまい、余計に将来から目を背けてしまうように思います。 長文大変失礼しました。 皆さまのご意見頂けたら大変ありがたいです。 よろしくお願いいたします。

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    国公立大学でも昔は5教科7科目共通一次の時代なら、公務員試験国家一般職大卒程度 地方上級は文学部でもそれなりにうかりました でも今は無理かもしれません http://siseikan.biz/img/koukou.pdf ★高校時代に使った教材は、英語でも数学でも国語でも社会でも理科でも一生の宝ものとして保存し続けるのです。 →★公務員志望の人は採用試験で大学入試の勉強をやり直さなければならないので、教材を捨てないよう に注意してください ビルトゥンクとリベラルアーツ 日本語のほんとうの勉強をしてください 日本語のお勉強もしましょう https://www.philosophyguides.org/amp/qanda/hegel-is-too-difficult-to-read/ ヘーゲルが難しすぎて意味不明ですがどうすればいいでしょうか? まずは「日本語に訳されているんだから当然読めるはず」という先入観を取り外しましょう 今のままだと欠点ダラケですから 判断推理数的推理資料解釈空間把握 公務員問題集 https://komuindesu.com/handan-suiri ビルトゥンク リベラルアーツ https://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/13111102ars.html 放送大学 数学の歴史 ニュートンは「科学者」ではなかった 科学革命を推進したのは、コペルニクス、ガリレガリレオ、ケプラー、ニュートンといった科学者たちでした。しかし、厳密には彼らを科学者と呼ぶことはできません。というのも、当時はまだ「科学者(scientist)」という言葉が存在しなかったからです。ニュートンの主著『プリンキピア(自然哲学の数学的原理)』の標題に見られるように、彼らは「自然哲学者」であり、科学者ではなく哲学者に属していました。 真理認識の唯一の方法であるということは、この方法を選択する以外には真理に接近することはできないという意味であって、弁証法的唯物論を活用すれば一挙に究極的真理に到達しうるという意味ではありません。幾重もの弁証法を駆使することによってのみ、相対的真理から絶対的真理へと無限に前進しうるという意味なのです。 哲学(フィロソフィー)という用語は、ギリシア語のフィロソフィアからきています。フィロとは「愛する」、ソフィアとは「知」を意味していますので、フィロソフィアとは「知を愛する」こと、言いかえると学問一般を示す用語でした。哲学は紀元前五世紀の古代ギリシアに始まり、今日まで二千五百年以上の歴史をもっていますが、一九世紀前半に至るまで世界全体の真理を科学的かつ体系的にとらえようとする学問として、経験諸科学一般と重なり合う性格をもっていました。 一九世紀前半の哲学者ヘーゲルは、「哲学という名称は、経験的個別性の大洋のうちにある確かな基準および普遍的なものの認識、一見無秩序ともみえる無数の偶然事のうちにある必然的なものや法則の認識に従事(する)……、あらゆる知識に与えられるようになった」(『小論理学』㊤七一ページ)として、当時ニュートン物理学は「自然哲学」(同七二ページ)とよばれ、寒暖計や晴雨計は「哲学的器械」(同)とよばれていたことを指摘しています。 一八三四年、英国科学振興学会は、自然を対象とする研究者を「自然哲学者」とよぶことは実情に合わなくなったとして、「物質世界(マテリアル・ワールド)に関する知識の研究者」の意味で「科学者(サイエンティスト)」という新造語をつくり哲学からの「科学」の独立宣言を発しました。 一八三一年に死亡したヘーゲルは、哲学と科学の分離を知りませんでしたので、彼の哲学大系は、自然科学、社会科学の対象をも包摂するものとなっており、世界全体の真理を認識する思惟法則としての「論理学」、自然の真理をとらえる「自然哲学」、人間および社会の真理をとらえる「精神哲学」という構成になっています。 哲学が経験諸科学と重なり合っていたという事実は重要な意味をもっています。というのも科学の対象となるのは客観的事実であり、科学的な真理の探究は、存在を第一次的なものととらえる唯物論の立場にたたざるをえないからです。したがって経験諸科学と歩みをともにしてきた主要な哲学も基本的に諸科学と同じ唯物論の立場にたってきたということができますし、ヘーゲルもまたその例外ではありません。 しかし経験諸科学の発展により、世界全体を構成する自然、社会、人間のうち、自然の真理をとらえる学問は「自然科学」、社会の真理をとらえる学問は「社会科学」、人間の真理をとらえる学問は「人文科学」として、それぞれ哲学から独立した学問となっていきます。 こうして哲学と経験諸科学とは袂を分かつようになり、「これまでのいっさいの哲学のなかでなお独立に存続するのは、思考とその諸法則とにかんする学問――形式論理学と弁証法である。 英語の「サイエンティスト」という言葉は、1840年にW ・ヒューエルが『帰納的科学の哲学』という著書の中で「アーチスト」になぞらえて新たに造語したものです。それが『オックスフォード英語辞典』に採録され、英語としての市民権を得るのは1914年以後のことになります。ですから西洋に「科学者」が誕生したのは、ニュートンの没後100年以上も経ってからのことでした。 科学者が一つの社会階層として登場した背景には、「科学の制度化」と呼ばれる出来事がありました。つまり、19世紀に入ると科学研究の専門分化と職業化、高等教育機関による科学教育、企業内研究所の設立、学会組織の整備などが押し進められ、科学が「社会システム」の不可欠の一部として機能し始めたのです。白衣を着て眼鏡をかけた科学者が研究室に閉じこもって実験に励むといった「アカデミズム科学」のイメージは、この時期に形作られたものです。 「科学技術倫理」の必要性 現代の科学技術は社会的な合意形成をはるかに上回るスピードで発達しており、環境破壊や資源枯渇など の社会問題のみならず、クローン技術に見られるような倫理問題をも引き起こしています。 このテーマに関して私が提唱したいのは、現状分析の「ある」という分析と、 規範の「べき」の追求、政策の「できる」の統合を、広い意味での公共哲学は 目指さなければならないということです。狭い意味での公共哲学は、この中の 公共哲学とは何か 「べき」論が中心となってくると思いますけど、広い意味での公共哲学は、諸 学問のメタレベルで、Sein(ある)、Sollen(べき)、Können(できる)の統 合的な研究を志向しなければならないと思います。 「ポスト専門化時代」の学問理念 ここで公共哲学を学問史的に位置づけながら、「ポスト専門化」という言葉 を導入しましょう。それは、ちょうど 100 年区切りできれいに理解できます。 200 年前、ヘーゲルが生きており、ちょうど 1820 年から 30 年にかけて哲学 的学問論を展開しました。彼は、ベルリン大学の総長ですから、すごく偉かっ たわけですが、彼が唱えたのは、哲学によって諸学問を統合するという学問理 念です。つまり政治も経済も芸術も宗教もみな、哲学の中にあるのであって、 哲学が諸学問を纏め上げるという哲学中心の学問理念です。このような 200 年 前のヘーゲル的な学問理念を、私は「プレ専門化」時代の学問理念と名付けて います(この考えを私は、1999 年出版の『新社会哲学宣言』創文社で打ち出 しました)。 ヘーゲルの死とともに哲学が終わった しかし学問史的にみると、1831 年にヘーゲルが死んだ後、そうした学問理 念は崩壊しました。ですから、「ヘーゲルとともに哲学が終わった」という指 摘はある意味では正しいのです。もしヘーゲルが今も生きていたとしたら、日 本の大学で典型的に見られるような、文学部の中にある哲学なんて、哲学とし ては絶対に認めないでしょう。すべての学問を纏めるのが哲学であり、哲学部 の中に政治学科や法律学科がなければならないのであって、その逆の形はヘー ゲルにとってはナンセンスだったのです。 しかし、ヘーゲルの哲学はあまりに観念論的すぎたためか崩壊し、19 世紀 半ば以降、諸学問の実証主義化や専門化が進行しました。理学部が哲学から独 立しますし、政治学や経済学などがどんどん哲学から離れて独立し、社会学も、誕生し、そしてそういった「専門化時代」に日本の大学制度と学部 構成が設立されたという事実を、私たちはしっかりと認識しておくべきです。 公共哲学とは何か ポスト専門化時代の公共哲学 それから 100 年経ちました。今度はヴェーバーを乗り越えなければならない 時代に入り、それを「ポスト専門化」時代と私は呼びたいと思います。今まで 日本の大学の社会科学は、おそらくヴェーバーのいう『職業としての学問』の 路線で営まれてきたと思いますが、それが行き詰まりをみせているのが現状で す。モントリオール大の学者たちも、ほぼそれを認めていました。ヴェーバー の学問論は、現代の諸問題に直面してもはや機能しなくなっていると、政治学 者や社会学者が告白していました。 では、それに代わるどのような学問理念が今必要なのでしょうか。「プレ専 門化」時代に戻ろうとするのは、明らかにアナクロニズムです。現在、哲学が 諸学を纏め上げることができるなどとは、パラノイアしか言わないことだと思 います。 パラノイアモドキであるルソーの神みたいなわ立法者よりの提言

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