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バブル時代以前の昭和の就活(主に文系大学生の)について質問です。

バブル時代以前の昭和の就活(主に文系大学生の)について質問です。①今よりも学歴フィルター・また学部フィルターは露骨だったのでしょうか? 例えば東京の大手だと「旧帝以外の地方大は採用しない」とか 「同じ大学でも経済学部の人は採用するけど文学部は採用しない」とかを 堂々と公言していたのでしょうか。 ②地方の大学の学生はどうやって就活の情報を得ていたのでしょうか。 一般的に地方大の学生は首都圏や関西圏の企業に就職したい場合、都市部の大学の学生と比べて情報面で不利に立たされると言われています。 インターネットすらない昭和時代は、地方大の学生が都市部の企業の情報を得るのはもっと大変だったように思います。文系の学生は東京や関西に出ることなく、ほとんど大学のある地元か自分の出身地の企業に就職していたのでしょうか? 昭和時代の就活を経験、また見聞きした方にお答えしていただきたいと思います。 以上2点、よろしくお願い致します。

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回答(1件)

  • ベストアンサー

    色々と時代環境が違うけど、まず学生側から応募するのではなく、企業側からのアプローチが前提で、4年の4月頃からリクルート系や新聞社系などの媒体が学生の自宅へ企業案内の冊子(電話帳みたいな)が送付されたり、個別企業から直接会社案内が送られてその資料に応募ハガキが付いていて、返信が今で言うエントリーです、今と違い個人情報の保護がうるさくなく、ザル状態のため学生名簿(学部やゼミまで)が半ば公開に近いからだと思いますが、結局冊子にしても、個別企業からのアプローチにしても大学ごと、学部ごとに来る来ないがあり、さらに来ても同じ会社でも大学や学部により厚さや中身が違うと言う、今でいうフィルターは有りましたよ。さらに資料か来て応募ハガキを返信してもシカトもあり、日本航空は政経の学生と商の学生と人事の連絡先電話ばんが別(後から判った)で商の番号はジャックが抜いてあるため繋がらないと言う学部フィルターもあり、基本的には応募ハガキの返信に返答無しと言うフィルターでしたね…、で数社応募ハガキを出しておくと8月頃に人事から電話が来るか、リクルーターの一覧表が来てアポをとり、2〜3回リクルーターの面接やって人事に呼ばれて2〜3回面接やって内定、就活解禁日(10月1日迄は経団連が)の一月前に内定者勢揃いでしたから、オモテ向きの会社説明会などには一切参加せず、10月1日は前日から内定者全員が拘束旅行でしたね。リクルーターの面接から内定まで2週間かからず、人事の呼び出しは同業各社が一斉に堰を切ったように始まり一週間以内に内定で、凄い短期戦でした。

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