解決済み
明治十四年の政変のことですが、なぜ大隈がクビになったら民衆が怒ったのでしょうか。黒田清隆と五代友厚の取引きと、 国会を開いてほしい自由民権運動の人達とはなんの関係があるのですか?? なぜ国会開設の勅諭で民衆の怒りは収まったのでしょうか??
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黒田、五代は薩摩閥、大隈は肥前、民権運動は土佐閥を中心勢力であり その派閥争いが根底にある 薩摩閥の北海道官有物払い下げ事件は財務省大隈閥がリークしたもので 黒田、西郷従道ら薩摩と、伊藤井上ら長州閥が岩倉ともに手を組み 薩長土肥の新政府から肥前、土佐を駆逐しようとして 激しく覇権争いをした結果 大隈は「俺ナシで新政府がもつかよ!?」と自信満々で下野した隙に 薩長閥で国会開設までのルール作りと立憲制度の模範とすべき憲法制度の研究と導入を一気に決めてしまったのである 国会開設すれば在野の意見が代議士を通じて政策に反映させることができるため 自由民権運動はコレを一つの節目とし、目的を達成したため、納得したものであるが それに先駆け、伊藤、岩倉らが 立憲制度でも君主制を色濃く残すプロイセン流の憲法を導入することを成功したので 制限された限定的な民主制になってしまった その後、近代的な政党政治が始まるかと思いきや 日本的な馴れ合い政治になってしまい 土佐閥板垣率いる自由党、肥前閥大隈の改進党ともに 板垣、大隈がヨーロッパ外遊などで政府に懐柔されてしまい ドイツ流の君主制が強い議会運動は盛り上がらず 自由民権運動は下火になってしまう
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