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なぜ本田宗一郎さんは社員から絶大な信頼で慕われたのですか?

なぜ本田宗一郎さんは社員から絶大な信頼で慕われたのですか?HONDAは創業以来何度か倒産しかけたとあります。 特に朝鮮特需終了後にバイクが売れなくなったときにマン島のレースで1位を取ると社内宣言して社内の士気を盛り上げて苦難を乗り越えた伝説は有名です。 その時はろくに社員に給料も払えず、社員は昼夜問わず仕事に追われ超ブラック企業状態、本田さんもかなり人使いの荒く、昔気質の職人気質で徹底的に厳しいものづくりの精神を持った人なので社員の方々も大変だったと思います。 それでも本田宗一郎さんを慕い付いて行ったのはなぜですか? 当時の常識では潰れかけでバイクも売れなくてどうしようもないって時にマン島レースで1位宣言だなんて狂乱の沙汰で夢物語だったとあります。 藤沢さんでさえ絶句したとありました。 それでも河島さん筆頭に優秀な技術者も多く会社に残ってます。 それだけ本田宗一郎さんについていくだけの魅力があったと言う事でしょうか?

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回答(10件)

  • ベストアンサー

    ホンダバイクを3台乗り継いでいる者です。 本田宗一郎さんが厳しくても皆さんから 慕われていた理由ですが、一言で言いますと 「本物の技術屋さん」だからです。 常に現場の事、お客様の事を考えていた人だから 従業員さんにもお客様にも慕われています。 本田宗一郎さんは様々な逸話があります。 まずホンダが最初に作り出した「車両」、 これは後に「原付」の原型になる エンジン付きの自転車が販売されました。 「ホンダA型」「カブF」がその例です。 開発された理由は「自分の奥さんのように 買い物で辛い思いをされている方が少しでも 楽に移動できるようにしたい」からでした。 ホンダスピリットの原点ですね。 その後、ホンダ以外のメーカーが追随して ペダル付きの原付を作り出しましたが、 道路事情が変わり、本格的な原付が必要と なってきた時は新しいモペッド=ビジネス バイクの開発を構想、最終的に自転車式の ペダルはなくなり、今のMTバイクの機構を 簡略化した変速機が与えられました。 多少の雨や泥から足を守る目的でつけられた レッグシールドや過積載にも耐え得る頑丈な 車体をさらに与えられた新型モペッドは 現在の「スーパーカブ」です。 スーパーカブは実用性に徹底的に拘ったバイクで 低燃費な上、ウインカー・ライトの上下・アクセルと ブレーキの操作が片手で出来るように設計されて います。 また、シフトも通常のバイクのようなリターンではなく ロータリーになっています。 これは「そば屋が下駄を履いて岡持ちをかついでも 片手運転・下駄履きで操作できるようにする」為です。 スーパーカブはOHVエンジン搭載のC100から 近年のフルモデルチェンジまで実に半世紀近く、 殆ど姿を変えなかった珍しいバイクで(流石に エンジンの動弁機構はOHVからOHCに変更 されましたが)今でも各地で見かけます。 現行型スーパーカブは中国製で、外国産の スクーターみたいな外見になっていますが、中身 (特にエンジン・トランスミッションは)と 一部の外装(レッグシールドやリアキャリア等) には初代スーパーカブの面影がしっかりと残っています。 また、現行型スーパーカブも壊れにくいという点でも 初代の面影を残しています。 また、本田宗一郎さんが亡くなる数日前、本田さんの 自宅に配達バイクが配達物を届けに行った際、本田さんは かなり喜んだそうです。 その配達バイクはなんとスーパーカブC100でした。 (初代スーパーカブの中でも一番古い車種。) 「大分昔の製品がまだ動いていたか!」と喜ばれたそうです。 本田さんは製品を作って売って終わりではなく、 お客様に喜んで使っていただいているかを常に 気にされていたそうです。 また、自動車産業保護の名目で作られた特定産業振興 臨時措置法案に対しては断固反対の体勢を取り続け ました。 これは、会社だけでなく従業員とその家族を守るためです。 その為、官僚とも戦ったそうです。 また、本田さんは徹底的な技術者である為、 従業員に怒鳴ることも度々会ったそうですが、 一番涙を流すのもまた本田さんだったそうです。 データを淡々と読み上げる従業員に対して、 「実際に走行させたデータをもってこい!」と 怒鳴って灰皿で殴りましたが、この時も他の誰よりも 本田さん自身が一番涙されていたそうです。 また、本田さんは製品以外でも周囲の人に配慮しました。 その一つがお葬式で、「自動車メーカーの創業者である 自分が葬式を出して大渋滞を発生ちゃ申し訳ない」と 社葬は行わいませんでした。 3ない運動には反対で「指導と言う名目で高校生から バイクを取り上げるのではなく、バイクに乗る際の 交通ルールや危険性を教えるのが教育ではないのか?」と 今現在の教育に問いかけられるような言葉も残されて います。 また、社長を辞める際にもどこぞの県議会議員や都知事の ように役職に固執する事も無くあっさりとやめた事も 周囲から慕われる理由です。 私は現行生産型スーパーカブ・ベンリィ50S・CB400SFと ホンダバイクを乗り継いできましたが、この3台共 ホンダスピリットを感じるバイクです。

  • 本田宗一郎さんには数々の逸話がある。 ”彼がHONDAの工場を歩いていると、彼を知らない若い工員から「おいおっさん! ズボンのポケットに手を入れて歩くな! 転んだら危ねーだろ!」と注意された。 この工員を班長は怒鳴ったが、本田宗一郎は「こんな仕事熱心なやつを怒鳴るほうがバカだ!」と怒った。 そして、その後ホンダのズボンから、ポケットが全て取り外された。” ”本田宗一郎が天皇陛下から勲一等瑞宝章を賜ることになった。 が、「技術者の正装は白いツナギだ。」と工場に居るのと同じ服装で参内すると言い出した。 「オヤジさん、やはりモーニングでないと。」「じゃあ行かねぇ。」 最終的には周囲の懸命の説得に折れ、しぶしぶ正装に身を包んだ。” などなど。。。 人材育成のために私財で返済不要の奨学金もやってたんですよね。 筋金入りのチャレンジ・スピリットだけではなく、人間臭さ、器の大きさ、「根っからの技術屋」の一言では表せない偉大な人物です。 もう、こういうカリスマは現れないんでしょうねぇ・・・

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  • 本田宗一郎が本物の技術者だったからですよ。 会社経営やお金のことはまるでダメで社長印ごと藤澤さんに預けていたのは社内では有名ですが、こと技術、特にエンジンに関しては回っているエンジン音を聞いただけで、どの部品のどこが悪いかピタリと言い当てる神の耳、神の手を持った天才エンジニアでした。 「書類や数字はウソをつくが技術はウソをつかない」が宗一郎さんのポリシーで、だから結果がすぐに出るレースに徹底的に拘りました。だから歴代のホンダ社長はレース経験者や研究所経験者ばかりです。 1986年にウイリアムズ・ホンダで初めてホンダが世界のエンジンの頂点に立った時、当時の桜井淑敏総監督が、チームの公式プレスリリースの最後に「早く本田宗一郎の喜ぶ顔が見たい」と書いたのは有名な話です。

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    1人が参考になると回答しました

  • バイク好き、クルマ好きが集まってたから、と聞いてます。好きことは打ち込めるのでないか。

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