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国家公務員一般職の公務員試験についてです。大卒の専門科目は、16科目から8科目を選択すると書いてあるのですが、これは自由…

国家公務員一般職の公務員試験についてです。大卒の専門科目は、16科目から8科目を選択すると書いてあるのですが、これは自由に選んで良いものなのですか?選んだ科目によって点数のどうこうとかはありますか?例えば、私はミクロ・マクロが苦手なのですが、これを避けて受験することも可能ということですか? ご存知の方教えて下さると嬉しいです!

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知恵袋ユーザーさん

回答(2件)

  • ミクロ・マクロ http://www2.tokuyama-u.ac.jp/kawada/2013/exercises/exercises2013rev.html ケインズ経済学とワルラス経済学の違いってなんですか?? #知恵袋_ https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13253734278?fr=ios_other ワルラス経済学 俗流経済学 近代経済学 ミクロ経済学 形式論理学 ワルラスとベンサム功利主義 ロックとホッブス 予定調和イケイケドンドン のどんつまり SDGsの意味。 #知恵袋_ https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14254099659?fr=ios_other http://takamuratetugaku.org/013/013_07_text.html 「 精神的な動物の国とだまし、または『ことそのもの』」 見出しの意味 「精神的な動物の国」(二三一ページ)とは「互いに権力を争い混乱に陥りながら、戦い合いだまし合っている」(三一〇ページ)社会であり、資本主義社会を意味しています。マルクスも、『現象学』のなかでは「ブルジョア社会が『精神的な動物界』として現われ」(全集二〇三ページ)るとしています。ヘーゲルは資本主義社会が利潤第一主義の本質をもっており、そこから利潤獲得をめぐってだまし合いの戦いが生じるということは理解していませんが、資本主義が「だまし」合いの「精神的な動物の国」にすぎないことは見抜いているのです。 そこは評価しうるのですが、以下にみるように、他方でヘーゲルが資本主義を「ことそのもの」という個人と共同体の一体化した社会としているのは、当時の産業革命の華麗さへの称賛があったとしても、問題といわざるをえません。というのも、そこには「物」そのものの変革の立場はあっても、現実の社会の変革の立場は貫徹されていないからです。 「ことそのもの」とは、産業革命から生まれた労働生産物としての商品、商品交換市場、市場経済などの幅広い意味をもったヘーゲル独自のカテゴリーです。ヘーゲルは「ことそのもの」のうちに個人と社会共同体との一体化を見いだし、内容面では「だまし」の世界という問題をもつものの、形式面においては資本主義を「人倫の国」であるととらえているのです。 したがって、変革の立場にたつ理性は、この形式面のみの「人倫の国」である資本主義に、「人倫の国」にふさわしい内容をもり込むことによって、名実ともに「人倫の国」にすべく、次の「b 立法的理性」「c 査法的理性」へと前進する、という論理の展開になっています。 ヘーゲルは、スチュアートやスミスのイギリス経済学を研究していますが、スミスがいうところの「神の見えざる手」による予定調和が「ことそのもの」というカテゴリーを生み出したということができるでしょう。 以下テキストに沿ってみていくことにしましょう。 個人は生産労働をつうじて社会的存在となる さしあたり個人性は、「徳と世の中」の経験をつうじて「われとわれわれの統一」という真理実現の確信をもっていますが、まだ「充たされていないし、内容をもっていない」(二三一ページ)段階にとどまっています。個人はまだ「本源的本性」(同)にとどまっていて、自己意識の概念が「われとわれわれの統一」であることを知ってはいるものの、それは「抽象的で一般的」(同)なものにとどまり、真理に向かって歩きだしていないからです。 この「単純な本源的本性は、行為や行為の意識となるとき、行為につきものの区別となって行く」(二三二ページ)ことになります。それがすなわち生産労働という行為であり、この行為は、自己を「目的」(同)と「手段」(同)による「実現された現実」(同)という労働生産物へと「自らの区別を展開」(二三一ページ)していくことになります。この生産労働をヘーゲルは「仕事」(二三四ページ)と呼んでおり、「仕事と一緒に、本源的本性の区別が出てくる」(同)のであり、「仕事は、行為から解放されて、存在する現実」(同)となります。 生産労働としての「仕事」は、「存在する現実」としての商品を生みだし、商品は生産者の手からはなれて、商品市場という社会的な場に押し出されることになります。こうして「個人は、本来仕事において一般性という場に、存在という無規定の場に、自分を押し出したのである」(二三五ページ)。つまり、個人はその仕事をつうじて、社会的存在となり、社会的理性を身につけることになるのです。 それと同時に、商品市場においては、生産者の個人性は消え去ってしまって、商品は、商品を購入しようとする「他の個人性にとって存在」(二三六ページ)するものとなっており、生産者にとってはもはや「見知らぬ現実」(同)となっています。したがって、「仕事をしている間に意識に起ってくるのは」(同)、生産労働という「行為」は自分のものであるが、商品という「存在」は他人のものという「行為と存在の対立」(同)なのです。同時に行為と存在の対立は、自己の個人性にもとづく行為が、社会的存在に転化したという意味では、「われとわれわれ」とが切っても切れない関係にあるとの自覚が生まれてくることになります。 「だから、この仕事において、意識は、自らが真に在る通りのものとなり、自己自身についての空しい概念も消え去るわけである」(二三七ページ)。つまり仕事を媒介として、個人と共同体、個と普遍、われとわれわれとの対立が統一されることを自覚することで「空しい概念も消え去」り、少なくとも形式的には絶対的精神が現実のものとなりつつあるのを感じるのです。 この対立物の統一を実現するためには、商品が、市場において流通しなければなりません。したがって「真の仕事」(二三八ページ)は「行為と存在のこの統一」(同)、つまり市場における商品の流通ということになり、この「真の仕事」から生まれたのが、一八世紀後半からイギリスで始まった産業革命による「ことそのもの」(同)、つまり商品交換の市場経済だったのです。 「ことそのもの」は形式的には人倫的実体 個人の生産した労働生産物が、市場において「ことそのもの」つまり商品として流通するためには、「個別的行為そのもの、環境、手段、現実などという偶然性たることからは、独立」(同)し、社会的に通用する交換価値と使用価値の統一という形態をもつことが求められます。 その意味では、商品としての「ことそのもの」は、資本主義社会という共同体の「精神的本質を表わして」(同)います。個別的行為の「すべての契機は、自分だけで妥当するものとしては、廃棄されており、したがって、一般的な契機としてのみ妥当」(同)しているからです。したがって、商品としての「ことそのもの」は、「自己意識から、自己自身のものとして、生みだされた対象でありながらも、自由な本来的な対象」(二三九ページ)となっています。別の側面からいえば「ことそのものにおいて、自己意識は、自らについての真の概念を自らえたのであり、自己の実体の意識に至りついた」(同)のです。つまり「ことそのもの」において「われとわれわれの統一」という自己意識の「真の概念」を手にすることができたのであり、ここに至って自己意識は少なくとも形式的には人倫的実体の「意識に至りついた」のです。 マルクスはこうした「ことそのもの」にかんして、「ヘーゲルは、労働を人間の本質として、自己を確証しつつある人間の本質としてとらえる」(『経済学・哲学草稿』二〇〇ページ)と述べています。つまり、自己意識は商品交換という「ことそのもの」において、自己の真の概念が「われとわれわれの統一」にあり、「自己の実体」は個人と共同体とが一体化した人倫的実体であるとの自覚に到達したのです。マルクスが、商品が商品としての価値をもつのは、「それがただ商品と商品との社会的関係においてのみ現われ」(『資本論』①八一ページ)る「純粋に社会的なもの」(同)と述べているのと同様の意義を、ヘーゲルは商品市場に見いだしたということができるでしょう。 商品の価値はその生産に必要な社会的労働時間によって規定されるという価値規定を基礎にして、商品の交換はその価値にしたがってなされるという価値法則が市場を支配します。それが等価交換の原則と呼ばれるものであり、ヘーゲルはそれを「誠実な意識」(二四〇ページ)と呼んでいます。この「信義誠実の原則(信義則)」は、市場経済を基礎とする近代私法の基本原理であり、民法一条二項にも「権利の行使及び義務の履行は信義に従い誠実にこれを為すことを要す」と明記されています。 「意識が誠実であると言われるのは、一方では、ことそのものが表現している理想主義に達しており、他方では、このような形式的一般としてのことそのものに即して、真理をもっているからである」(二三九ページ)。 ヘーゲルは市場経済のもとでの信義則こそが、商品交換における「理想主義」を表現したものであり、商品交換の真理であると高く評価したのです。 しかし他方で「この誠実の真実は、外見ほど誠実であるはずがない」(二四一ページ)とされます。というのも、この誠実な意識は「個人性と一般性が自ら動いて浸透し合う」(同)ところに生じるのですが、個人性としての利潤第一主義が資本主義社会において「本質的なもの」(二四二ページ)であるのに対し、一般性として略

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  • 初めまして今年度国家一般職で最終合格したものです。 16科目の中から8科目好きなものを自由に選ぶことができます! 私もミクマクを捨てて他の科目を選びましたよ! 応援しています!

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