解決済み
生きる意味、生きる目的 抽象的ではない答えがほしいです。文章力が無く上手く伝えられないですが1人では解決に至らないのでお願いします。まず僕がこれについて考えるようになったのは中学の時です。毎日通学、勉強する生活に疑問を持ち、考えるようになったのが発端です。自分は何のために生きているのか。なぜ皆死なずに現実世界で必死に生きているのか。何日も悩み考えました。 とにかく答えが欲しくて一番最初に思い浮かんだのが 「生きる意味を探すために生きる」 です。ですが所詮綺麗事を並べただけなので全く答えになりませんでした。 その次に考えついたのが 「死ぬために生きる」 です。死んで天国へ行けるようにこの世で善行を積む。死ぬために命を燃やす。ですがそれでも死後の確証もない答えで納得がいきませんでした。 そして最後にたどり着いたのが 「生きる意味は無い」 です。地球や宇宙から見れば1人の生などちっぽけなもの。地球やこの生命は宇宙誕生から暫くしてできた偶然の産物なのかもしれない。いずれは1人として残らずまた自然のサイクルとして何も無かったかのように過ぎていく。例えば愛する人と過ごすため、家族と幸せな家庭をつくるため生きる人がいるとしてもどれもこれも無意味。死後の世界がなければ思い出すらも残らない。神がいるなら何故目的を示さないまま生かしているのか。いずれは太陽の膨張、自然災害で滅びるかもしれない存在を。 この考えに辿り着いてから死んだように生き、高校生活を送りました。何の感情もわかず後悔も感傷に浸るのも無駄なようにも思います。この先社会にでるとまた社会の歯車となり、世間の求めるニーズに答えるためだけに働き歯車として錆、使えなくなれば新しい歯車に交換する。そうしてこの世から消えます。そう思うと生きる目的もないまま何故生きるのだろうと余計悩み分からなくなります。死後は何も無いのか天国や地獄が存在するのか。周りは死ぬことを止めます。何故止めようとするのかも分からない。止める人間は何を考え何を思って現実の世界にとどめようとしているのか。苦しいです。明確な理由、意味が欲しいです。こいうい哲学に答えなど無いという人はもっともだと思います。ですが僕の先を行って考えたどり着いた人などがいればどうか教えて欲しいです。 長文失礼しました。
色々な回答ありがとうございます。ただ3つ目の答えに辿り着いてから他人に好意を抱くことも無くなりました。好きだった音楽や漫画にも興味をいだけなくなりました。目的や趣味、好きなことが無い、無くなった人間、探すことすら無意味に思える人間はどう生きればいいのでしょうか。卑屈な考えですみません。
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色不異空 空不異色 色即是空 空即是色
何のために生きるのか? それは「幸福」の二字以外にありません。どんな人も これ以外に求めて生きている人は絶対にありません。 この世に絶望して自殺をしようとしている人も死ねば 安楽な世界に行けるだろうと思って死ぬのだし この世の絶望を断ちたいと思っての行動です。 政治、経済、科学、医学、芸術、スポーツ、倫理道徳など 全ては古今東西全人類をより良く生かそうと発展してきました。 他国からの脅威を取り除こうと身勝手な核を造っているのも 自分の利益を最優先して国民を犠牲にしてまで自分を守ろうと している輩もいます。 太宰治 しかし相変わらず苦しみ悩みはなくなりません。 なぜ生まれて来てよかったと、 ああ、いのちを、人間を、世の中を、 よろこんでみとうございます……… 僕は自分がなぜ生きていなければならないのか、 それが全然わからないのです。『斜陽』 そして翌年、遺作となった『人間失格』を残して 自殺してしまうのです。 武者小路実篤 人間は何の目的で生まれたのか。 また何か目的があって自然は人間を生まれるようにしたのか。 僕にはそれがわからない。『人生論』 アントン・チェーホフ 海外の文学者でも変わりません。 モスクワ大学医学部を卒業しながら、作家となり、 当時の文学界に大きな影響を与えた 19世紀のロシアの小説家チェーホフは、 『自分の生存の意義や目的を知ろうとしたって、 なんにも教えられはしません。 教えられることといったら、どれも、 つまらないばかげきったことばかりで、 いくらむちゅうになってたたいてみたところで── とびらは開かれはしないのです。 死が近づいてくるだけなのです。(チェーホフ) チェーホフは、 「教えられることといったら、どれも、 つまらないばかげきったことばかり」 といっていますが、それはどんなことでしょうか? やはり「生きるために生きる」とか、 「魂の成長」とか「自己実現」とか かもしれません(笑) 釈迦 仏教を説かれたお釈迦さまは今から二千六百年前、 インドの北部の釈迦族の城主・浄飯王、マーヤ 夫人の子息として誕生され、 幼少の名はゴーターマ・シッダルタ太子と言われ 何もかも手にしておられた人でした。 だがあなたと同じ悩み「なぜ生きるのか」に大変 悩まれ二十九歳で城を抜け出され厳苦六年、難行苦行 の末、 三十五歳で仏の悟りを開かれ八十歳でお亡くなりになる までの四十五年間仏教を説かれました。 その教えは今日、一切経として教えは遺されています。 一切経には 本当の生きる意味が説かれています。 やはりお釈迦さまは、世界の三大聖人、 二大聖人と言われてもトップにあげられ、 いかに人智を超えた方か分かります。 約八百年前、日本に生まれられ鎌倉仏教の柱として ご活躍された親鸞聖人は釈迦の説かれた一切経を何度も 何度も読み破られ「膨大なお経の中、大無量寿経が 釈迦の本心が説かれた経典であることを突き止められま した。 親鸞聖人の書き残された主著「教行信証」の『正信偈』に はその答えを「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」と書か れています。 意訳 「釈迦如来がこの世に現れ仏教を説かれた目的は、 十方諸仏の師匠である阿弥陀仏の本願一つを説く ためであった」と断言されています。 釈迦のお導きによって 親鸞聖人は「教行信証」の冒頭に、 「難思の弘誓は 難度の海を度する大船、無碍の光明は 無明の闇を破する慧日なり」と宣言されています。 意訳 「阿弥陀仏の本願は、私たちの苦悩の根元である無明の 闇を破り、苦しみの絶えない人生の海を、明るく楽しく わたす大船である。 この船に乗ることこそが人生の目的だ」全人類への 一大宣言ではありませんか! 何の為にこのつらい人生、生きねばならぬのか。 「苦海をわたす大船に乗ること」とは、 「苦悩の根元である無明の闇が破られ、 “よくぞ人間に生まれたものぞ”と生命の大歓喜を得ること」 と聖人は断言されているのです。 20世紀を代表する哲学者・マルティン・ハイデガー(ドイツ)が、 親鸞聖人に深い感銘を受けていたことが、 『中外日報』(昭和38年)の記事にある。 「今日、英訳を通じてはじめて東洋の聖者親鸞の歎異抄を読んだ。 弥陀の五劫思惟の願を案ずるにひとえに親鸞一人がためなり けりとは、何んと透徹した態度だろう。 もし十年前にこんな素晴らしい聖者が東洋にあったことを知ったら、 自分はギリシャ・ラテン語の勉強もしなかった。 日本語を学び聖者の話しを聞いて、世界中に拡めることを生きが いにしたであろう。遅かった(※)」と書いている。 ※松野尾潮音「生活のなかの信仰4」 (『中外日報』昭和38年8月6日) 更に「自分の側には日本の哲学者、思想家だという人が三十名 近くも留学して弟子になった。ほかのことではない。 思想・哲学の問題を随分話し合ってきたがそれらの接触を通じて、 日本にこんな素晴らしい思想があろうなどという匂いすらなかった。 日本の人達は何をしているのだろう。日本は戦いに敗けて、今後は 文化国家として、世界文化に貢献するといっているが私をして云わし むれば、立派な建物も美術品もいらない。なんにも要らないから聖人 のみ教えの匂いのある人間になって欲しい。 商売、観光、政治家であっても日本人に触れたら何かそこに深い教え があるという匂いのある人間になって欲しい。 そしたら世界中の人々が、この教えの存在を知り、フランス人はフラン ス語を、デンマーク人はデンマーク語を通じてそれぞれこの聖者のみ教 えをわがものとするであろう。 そのとき世界の平和の問題に対する見通しがはじめてつく。二十一世紀 文明の基礎が置かれる」と述べています。 参照:「なぜ生きる」、「歎異鈔をひらく」より
なるほど:1
あちこち彷徨ってつまみ食いした浅薄な知識と自分なりに考えた今の結論です。 現象から見て、人が「生きる」というより「動く」理由は、「渇望」と「恐怖」です。 言い方を変えると、「幸福の達成」と「不幸・苦しみの滅尽」です。 この理由により、「生きる」「生かす」だけでなく「死ぬ」「殺す」という動きもします。 しかも悪意とは限らず善意であることもあります。 ここからうっすらと生きる目的は浮かんできますが、そう単純でなかったりします。 だいたいの人は「絶対的な幸福」もないし「不幸の滅尽」も不可能と思い、世界はこんなものだと妥協して、各々が生き易い意味付けをして生きています。 肉体的な必要と、比較による相対的な精神的幸福と不幸の中で甘んじて生きています。 話を変えます。 有は無を生じませんし転じません。同様に、無も有を生じませんし転じません。 有とは、究極的にはただ一つにして全てである何かであると推測します。 もし、「私」なるものが「実在する」ならば、それは「有」として時間を越えて存在し続けるはずです。 宇宙が生じる前から存在し、生じている間も存在し、消滅した後も存在するでしょう。 また、数多の「私」なるものは、ただ一つにして全ての「私」に収束されるでしょう。 特に時間と空間がない状況では、分離は存在し得ないと推測します。(主体と客体は存在しない) もし、「私」なるものが「実在しない」ならば、それは「無」から生まれ、「無」として生き、死んで「無」となるはずで、当然全く意味はありません。 無は非実在なので語ることはありません。 そして、もし「私」が「無」なら、「無」であるに関わらず何故か苦しんでいる「私」にとって、「死」こそが救いとなります。(これが真実ならどれ程楽なことか!) しかし、「無」がもたらす苦しみからの解放と同時に、「生」への「渇望」や「死」への「恐怖」という矛盾した感情がわずかであっても生じるでしょう。 それは、「私」は実在する「有」であると実際は感じつつも、実在しない「無」に変化するとも考えているという、「有」と「無」が混在する矛盾した論理による思考から生まれていると思います。 過去世を覚えている人や思い出した人は極めて少数で、世界はほとんど無視しています。 「無」であるに関わらず苦むということがそもそも矛盾に思えます。 喜び苦しむ主体がなければ、世界は「無」であるも同然です。 「私」が問題を抱えて自分と世界の意味を問うのであり、世界は生じようと滅しようと何も問題を持たず何も問わないのです。 これが私が世界に対して「有」か「無」かを考えなかった理由です。 ただし、もし「私」が「有」であったとしても、「有」が無意味・無価値であることは有り得るでしょう。 戻って、もし「私」が「有」ならどうなるかをさらに考えます。 「渇望」と「恐怖」に束縛され永遠に動かされ続けるでしょう。 これは人によっては地獄です。 獲得したはずの喜びは続かず、壊れ奪われ色あせ、失望・嘆き・憂い等とった苦しみに変化します。 次から次へと追い続けても、永遠の完全な幸福は得られませんが、追い求めずにいられません。 一方、苦しみは、逃れても逃れても何度も追いついて苦しめ、最後には「私」を殺しますが、「私」が絶対的に死ぬことは不可能なため、何度も復活しその度に死を筆頭とする苦しみが「私」に襲い掛かり永遠に殺し続けます。 さて、有と無のどちらが正しいのでしょうか?有であった場合、苦しみから逃れる方法はあるのでしょうか? 科学は結局のところ、この解決のために発展し続けていると私は思いますが、解決には程遠いですし、私は無理だと思っています。 哲学でこれを解決したと言う人を私は知りません。 宗教はあるといい(面倒なので仏教は例外にしておきましょう)、解決したと言う人がいます。 ということで、宗教についてですが、さらに長くなりますし、必要とされてないかもしれないので、引用だけにしておきます。(それでも十分長いですが) この段階で、今の時点で私が考えている生きる目的は、あなたにとっては飛躍があって理解不能かもしれませんし、抽象的にしか感じられないかもしれないので書くことは控えます。 それと、もし関心を持ったとしても、特に「奇跡講座」(または「奇跡のコース」)は難解で挫折すると思うので注意してください。 以下、引用 「奇跡講座 ワークブック編」 レッスン11 [私の無意味な考えが、意味のない世界を私に見せている。] ・・・あなたには、自分が何を知覚するかは、まるでこの世界が決定しているかのように思えている。 L 12 [私が動揺しているのは、意味のない世界を見ているからである。] ・・・あなたは自分が動揺しているのは、恐ろしい世界、悲しい世界、暴力的な世界、狂った世界などのせいだと考えている。しかし、こうした属性はすべて、あなた自身がこの世界に与えたものである。世界そのものには意味はない。 ・・・意味のないものは、よくも悪くもない。それなら、なぜ、意味のない世界があなたを動揺させるのだろうか。もしあなたがこの世界を意味のないものとして受け入れることができ、そこにあなたのために真理が書き込まれるままにすることができたなら、それは言葉に尽くせないほどあなたを幸せにすることだろう。しかし、それが意味のないものであるからこそ、あなたは自分が望む世界像をそこに書き込まずにはいられない。あなたがこの世界の中に見ているのは、これである。真に意味のないものというのは、これである。 L 13 [意味のない世界は恐れを生み出す。] 実際には意味のない世界などというものはありえない。意味のないものは存在していない。だからといって、意味のないものであれば、あなたがそれを自分が知覚していると思うことがない、ということにはならない。それどころか、あなたは、意味のないものを確かに知覚していると、特に思いやすいのである。 無意味さの認識は、分離している者たちすべてに、強烈な不安を引き起こす。 (中略)きわめて重要なことは、あなたが意味のないものを認識して、それを恐れずに受け入れられるようになることである。もし恐れているなら、あなたは必ず、世界に備わっていない属性を世界に授け、本来は存在していない姿や形の数々でそこをいっぱいにするだろう。 L 14 [神は意味のない世界を創造しなかった] 今日の主題概念が、意味のない世界などありえない理由である。神が創造しなかったものは存在しない。そして、存在しているものはすべて、神が創造したままに存在している。あなたの見ている世界は、実相とは何の関係もない。それはあなたが自分で作り出したものであり、存在してはいない。 L 16 [私に中庸な考えはない。] あなたの見ているすべては、あなたの考えがもたらす結果である。この事実に例外はない。考えには大小も強弱もない。ただ真か偽かのどちらかである。真実の思考は真実のものを創造する。偽りの考えは、偽りのものを作り出す。 「無為な考え」という概念ほど、自己矛盾した概念はない。世界全体についての知覚を生起させるほどのものを、無為などと呼べるはずはない。あなたが抱く考えの一つひとつが、真理か幻想かのどちらかを助長する。 L 25 [私は何が何のためにあるのかを知らない。] 目的とは、すなわち意味である。今日の主題概念は、なぜあなたに見えているものに何の意味もないのかを説明している。あなたはそれが何のためにあるのかを知らない。したがって、それはあなたにとって無意味である。一切はあなた自身の最善の利益のためにある。そのためにこそ、それは存在し、それがその目的であり、その意味である。このことを認識することで、あなたのいくつものゴールが統一される。このことを認識することで、あなたの見ているものに意味が与えられる。 あなたは世界とその中にある一切を、自我のゴールの見地から有意義だと知覚している。これらのゴールはあなたの最善の利益とは無関係である。自我はあなたではないからである。自分が自我だという誤った自己認識によって、あなたは何が何のためにあるのかを理解ができなくなっている。 「明らかに世界はあなたの想念なのだ。想念とはあなたが投影したものである。はじめに「私」が創造され、それから世界が創造される。世界は「私」によって創造され、「私」は「真我」から立ち現われる。そのため、もしあなたが「私」の創造を解明すれば、世界の創造の謎も解明されるのである。それゆえ、私は言うのだ。「真我を探求しなさい」と。」 「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」P.323 「あなたは世界とその創造者を超え、意識とその観照者を超え、すべての断定と否定を超えた至高の実在なのだ。 それを覚えておきなさい。それについて考えなさい。 それにしたがって行動しなさい。 すべての分離の感覚を放棄しなさい。 すべての中にあなた自身を見て、それに沿うように行動しなさい。 行動とともに至福が訪れ、至福とともに確信がやってくるだろう。 ひとたびあなたが外的な原因の必要のない平和、愛、幸福を体験し始めたなら、すべての疑いは消え去るだろう。」 「私は在る」(ニサルガダッタ・マハラジ)P.442 「このコースは愛の意味を教えることを目指してはいない。 それは教えることのできる範囲を超えているからである。 しかし、愛の現存を自覚できなくしている障壁を取り去ることは、たしかに目指している。 愛の現存そのものは、生来あなたが受け継いでいるものである。 愛の対極は恐れであるが、すべてを包み込むものに対極はありえない。 したがって、このコースは次のように極めて簡潔に要約できる。 実在するものは脅かされない。 実在しないものは存在しない。 ここに神の平安がある。」 「奇跡講座 テキスト編 序文より」
死後の世界について(知恵ノートより) http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n293499 ◆霊の礎 霊界の実在と死後の生活について明確に示されている。この書を拝読することによって人生の本義を悟らせていただくことができる。また霊界の大要や消息を知る手引書としても最適の書といえる。 http://www.tenseisha.co.jp/libro/ISBN4-88756-013-3.html 人生の目的 http://blogs.yahoo.co.jp/potyosenbatu3234/10668556.html
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