解決済み
危機管理問題に強い、作家の佐々淳行さんは… 「学生闘争では、「警視庁の警備部門で、特定の機動隊を担当する」一ツの課長として。 あさま山荘事件では、「警察庁の警備部門の部署で、課長クラスの担当者」。 それぞれとして、現場の機動隊を指揮していた為、警備部門に強いキャリア組の警官だった」のは、ご存知の方多いと思います。 それに関して、「あさま山荘事件や学生闘争無ければなら、佐々さんは警視庁本庁か、大阪府警等違う道府県警本部で、警備部長(機動隊を担当する部署の責任者)クラスとして、着任するのはあり得たか?」と言う内容で、質問した所… 「警視庁の公安部長と警備部長は、警視総監や警察庁長官コースへの登竜門です。 それ迄には、警視庁の本富士警察署(東京都文京区)へ、署長として着任するのが普通です。 佐々さんは着任しなかった為、総監・長官コースから外れた事になります」と言う内容で、回答頂きました。 そこで、気になって改めて質問したいのは… 「その本富士警察署で、学生闘争時代の署長は、佐々さんの警察庁時代の知合い。 又、後のあさま山荘事件では、警視庁勤務だったと思うが、機動隊とは別に「佐々さんと一緒に、現場に出動した」警官隊の一人。 その人が後に、何かの事件の当時警察庁長官として有名になった、国松(國松)孝次さんだ思う。 国松さんが、警察庁長官迄に着任する迄に経験した役職に、兵庫県警本部長があったと思う。 兵庫県警本部長としては、 「学生闘争と、あさま山荘事件」から見れば、約何年後から約何年間勤務したか? 又、国松さんはキャリア組の警官としての勤続何年目に、県警本部長へ着任した事になるのか?」に、なります。
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國松氏のキャリアから・・ 1937年生・東大法学部卒 1961年入庁(23歳) ↓ この間、1968年~70年 安保闘争による学生運動激化 ↓ 1969年本富士警察署長(入庁8年・32歳) 1972年警視庁公安部外事2課長(入庁11年・35歳) 同年 あさま山荘事件 1974年在フランス大使館(入庁13年・37歳) 同年 三菱重工ビル爆破事件 1982年警察庁警備局警備課長(入庁21年・45歳) 1984年大分県警本部長(入庁23年・47歳) 1985年警察庁刑事局捜査第二課長(入庁24年・48歳) ↓ (警察庁課長を歴任) 1988年警視庁公安部長(入庁27年・51歳) 1989年兵庫県警本部長(入庁28年・52歳) 1991年警察庁刑事局長(入庁30年・54歳) 1994年警察庁長官 つまり、兵庫県警本部長として勤務したのは「あさま山荘事件から17年後~19年後」 また、県警本部長に着任したのは、最初の大分県警が入庁23年、兵庫が入庁28年と言うことになります。
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