●www.geocities.jp/kanreisai/tousi.htm 「唐詩」というサイトにこんな説明があります。 おふざけの文章を一部改め、口語訳は全部書き直しました。屏風の文句はこの七言絶句の3・4句です。 「玉関寄長安李主簿(玉関にて長安の李主簿に寄す) 岑参 東去長安万里余 東のかた長安を去ること万里の余 故人何惜一行書 故人なんぞ一行の書を惜しむ 玉関西望堪腸断 玉関西のかたより望めば腸を断つに堪へたり 況復明朝是歳除 いわんやまた明朝はこれ歳除なり 東方の長安の都を離れること一万里余り。 あなたはどうして一行の手紙すら惜しむのだ。 いま西方の玉門関から君のいる方角を望み、断腸の思いに堪えている。 まして明朝はまた大晦日で、一年が終わろうとしているのだから。 岑参という人は盛唐の詩人です。715年に生まれました。杜甫(712年生まれ)とか李白(701年生まれ)とかと同時代のひとです。 三十歳で進士となり官僚となります。二度ほど西域に勤務したことがありて、そのころの見聞を悲壮な調べで歌った詩に特徴があり、「辺塞詩人(ヘンサイ・シジン)」と呼ばれることがあります。 しかし、人生の半ば過ぎ755年に安禄山の乱がありて、他の盛唐の詩人たち同様、戦乱に巻き込まれながら人生の後半を過ごし、退官後770年に四川で亡くなったといいます。 この詩は、実は二度目に西域に勤務していた天宝十四年(755年)、まさに安禄山の乱が起こりて、岑参も長安に戻れという辞令を受けて急ぎ西域と中国の境にある玉門関まで戻ってきたときの詩です。 実際はこのとき既に反乱軍は長安に侵攻しておりて、玄宗皇帝は四川方面へ蒙塵中、という状態だったのです。李主簿と言われている友人もそのまま行方不明。」 ●河上肇「閑人詩話」にはこんな文章があるそうです。これもネット検索の結果。 「漢詩を日本読みにする場合、送り仮名の当不当は、往々にして死活の問題となる。例へば、唐詩選の岩波文庫本には、岑参の詩を、 東去長安萬里餘 東のかた長安を去る万里余り 故人那惜一行書 故人那ぞ惜まん一行の書。 玉關西望腸堪斷 玉関西望すれば腸断ゆるに堪へたり 況復明朝是歳除 況や復た明朝是れ歳除なるをや。 と読ましてあるが、この詩の第二句は「故人那ぞ惜まん」ではなく、「故人那ぞ惜むや」である。「惜むや」を「惜まん」と読むだけで、ここでは全体の意味が全く駄目になる。岑参のこの詩は「玉関にて長安の李主簿に寄す」と題せるもので、詩中に故人と云へるは即ち李主簿のことであり、この友人から一向に手紙が来ないために、「故人那ぞ一行の書をすら惜むや」と訴へたのである。」
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