私も24歳、25歳手前までは、新卒で就職した会社を辞めたあと、フリーターをしていた頃があります。 パチスロ店、結婚式場、スーパー、ショップ店員、中華料理店、引越作業、工場作業員など、色々です。 22歳ですよね。若いというのは就職の最大の武器なので、今のうちにしっかりと腰を落ち着かせて働く仕事・会社を決めないといけませんね。 やはり、1つは「甘え」だと思います。 仲が良い人がいても辞めてしまう、人間関係とかではないということですし。 2つめは、「明確な『やりたいことが見つかっていない』」、やりたいことでなくても「自分は何なら出来るのか」「何なら興味が持てるのか」も今は何もないからではないかと思います。 私が転々としていた頃を振り返ってみると、社会人になったのは、学校という学びの場所を卒業したので、あとは働くしかないというくらいの感じで社会に出て「これといってやりたい仕事もない。でも、学校も卒業したので、生活していくために働くしかない」という理由くらいで仕事をしていました。 ただ、生きるために稼ぐ。稼ぐために働くしかないというだけですね。 そんな中、ある日バイト仲間から「簿記」というものを聞いて知りました。会社の儲けや損が分かることを知って「面白いな」と感じたところから人生が変わり始めました。 この頃、資格と言えば、運転免許しか持っていませんでした。 バイト仲間が深夜まで遊んでいる中、一緒に遊び回るのをやめて、借りていたボロアパートに帰って簿記の勉強を始めました。おカネも無かったので市販の書籍を買って6月に日商簿記3級、11月に日商簿記2級と全経簿記1級を取って、ハロワで見つけた個人の税理士事務所へ行きました。 業務未経験で、日商簿記2級程度の簿記知識しかなかったのですが、当時の年齢24歳という「若さ」で採用してくれました。 なので、まずは「若い」というのは非常に重要で有利です。 その後、翌年3月に建設業経理士2級という資格を取ったのですが、あまりの給料の安さ(総支給で月13万円から15万円)から、ボロアパートの家賃でさえ払うのに困り「やっぱり、おカネだ」「お金が大事」「お金が無いと何も出来ない」と強く感じるようになり、金が稼げる=魅力があると思うようになり、稼げる業界を探して、不動産業界に目を付け、宅地建物取引士の国家資格を取ろうと決めて勉強しました。仕事、勉強、寝るの日々を過ごして10月に受験して合格し、税理士事務所は1年で辞めて、東証1部上場の不動産会社へ転職しました。 ただ何となく働いていて、簿記に出会い、面白いと感じて学ぶことを始め、思った仕事に就いたけど給料が安くて、もっと稼ぎたい、貧乏は嫌だと思って不動産営業職に就きました。 「面白いと思った」と「カネが欲しい」が自分を動かしたわけです。 確かにお金は貰えました。20代後半には総支給額で月50万円以上の給料をもらい、賞与は半期の成果報酬も入ると多い時では300万円あったときもあります。 20代後半で店長をしていました。 接客対応、物件案内、契約締結、物件受け渡しまでのフォローなどで、深夜まで働く毎日でした。 中途入社した当初に、管理業務主任者というマンション管理の国家資格を取ったり、火災・家財保険の契約で必要な損害保険募集人資格を取ったりと、眠たい中でも「カネを稼ぐぞ」という思いから社内奨励資格も取りました。 ただ何となく働いて何の取り柄もなかった私が、20代後半には簿記会計と法律知識を使って営業の仕事をしていました。 簿記知識も法人に不動産物件を売買する際に役立ちました。 「自分(あなた)は何ができますか」 この問いかけに、自分はコレとコレは出来ますと言える何か(私の場合は簿記と法律)を持てるようになっていました。 自分の中に、「技、技能、取り柄」を持つことが大事ということです。 特に不動産業界では宅地建物取引士の国家資格は持っていて当たり前のご時世になっています。それは、宅建の資格が無いと重要事項の説明や契約締結が出来ないからです。その資格があるから出来る業務=独占業務のある国家資格を取ることは自分のワザ(技・技能)になりますので。 そんな生活を6年半して、貯蓄も随分と貯まりました。夜にお付き合いで飲みにいっていくら使っても、帰りにタクシー代をいくら使っても気にしないで生活出来ました。お付き合いが給料を増やす元にもなっていましたので。 しかし、仕事、飲み、寝るの生活は身体にキツく、緊急入院したことで「この仕事も長くは続かないな・・・」と思い、退職して地元へ帰ってきました。 地元は人口10万人程度の街で、これといった仕事もなく、それなら地元では優良企業と呼ばれている会社に入ろうと思い、募集していた3交代の作業員の募集を受けました。 そうしましたら面接時に「経理の仕事はどうですか」と求人募集をしていなかった事務系の仕事を薦められて、経理職兼総務職の仕事に就きました。 入社してみると、従業員数約1,500名程の規模の物流会社で創業50年以上、大手化学メーカーやTVでCMしているような製造業の会社数社の1次下請けの会社でして、日通、佐川、ヤマト、西濃、名鉄、帝人等の大手物流会社に仕事を出している、要は大手を2次下請けとして使っている会社でした。 入社して、はじめて「なるほどな、だから地元では優良企業と言われているんだな」ということは分かりました。 会社は入ってみないと分からないものですよね。 上場企業ではありませんが、売上も数百億円あり、上場企業よりも営業利益を出しているような会社でした。 200を超える通信講座があり教育体制も整っており、入社後1年8ヶ月で資格取得を指示された運行管理者(貨物)と第一種衛生管理者の2つの国家資格、そしてTAC、大原簿記などの通信講座を受けて税理士試験科目の簿記論と財務諸表論を取得しました。 そしましたら、1部署および子会社1社の経理及び総務担当として、 簿記知識:月次・年次決算、収支報告、顧問会計士・税理士との折衝 宅建知識:貸倉庫等の契約書類の作成・締結 保険知識:担当部署および子会社の車両や社屋の損保関係の更新手続き 運行知識:運送基本契約書や覚書、協定書等の作成 衛生知識:所属部署の所在地の労働基準監督署に衛生管理者として登録、社内担当部署の安全監査等を実施 というポジションと役職を頂きました。 また、会社から指示を受けてあれこれと資格を受験して合格していると、講習で取れる甲種防火管理者やボイラー取扱技能者も取ってくれと言われ、どんどん当てにされて、その分自分自身も知識が身についていきました。 色々な業務や仕事上必要な資格を取っていくと、職場での住み心地も良くなりました。 私自身が頑張った、それだけではありません。私が感じているのは「人」を「人(財)」として上手く利用する、利用できる会社に入社したことで自分が活かされたと感じています。 ですので、 「入社した会社次第」「勤めた会社で人生が変わる」 ということです。 いくら、頑張っても会社側が「こいつは、ここで用いよう」とか「これが出来るなら、こっちの仕事もさせてみよう」と社員を活かせる会社に入社出来ないと、頑張って身に付けた知識等は生かせません。 なので、「会社選び」というのは非常に重要です。 このような流れから、今の仕事に就き、もうふらふらと転職することは無くなったのですが、やはり節目、節目には自分が努力して切り開くしかない、そうでないと何も変わらない、時間だけが過ぎて行くということになりますね。 自分を活かしてくれる会社に入社する。 これが一番難しいことです。会社って、入社して見ないと、本当の仕事内容、会社の経営体質、社風、職場の雰囲気なんて分かりません。 なのである意味、運や賭けみたいな面もあるのは確かです。 しかし「運」がないと、まともな会社、安定した生活が送れないのかというとそれは違います。 いくら強運の持ち主でも、何もせず何も努力していなければ面接官の目の前を通り過ぎていくだけです。 やはり「努力」は大事ということですね。 ノルマのキツい大手不動産会社の営業職から中小企業の事務職に変わり、給料は落ちましたがそれでも総支給額月37万円はあります。 随分と気持ち(メンタル)の部分も楽になりましたし、取って来い!の営業職より良いです。また勉強も出来て、それが評価にもつながっていますし。 稼いだおカネで中古分譲マンションを3室購入して賃貸もして副収入を得ています。 ただ、ふと「これだけ頑張ってきても、ただの田舎の運送屋の事務職か」と思うときもあります。しかし、そこは妥協と納得も必要だと思っています。 ですので、職場環境は悪くないのに辞めてしまう=甘えのようなものが出て来るのは、それは「自分が何をしたいのか」が定まっていないからです。 仕事選びも給料と休日などの労働条件が主になっているからでしょうね。 私も当然その辺りも重視します。 しかし、自分に何か取り柄を持たないと、「手応え」のある仕事は早々任せてもらえませんし、人材を人財として扱う会社にも入社出来ません。 今の自分ってどうなんだろうと思っているときが「まさに自分の分岐点」です。 何もしなければ、何かしらの行動をしなければ何も変わらないのは確かです。 ここで、自分の中を再度整理して、どこへ向かっていくのかをじっくりと考えてみるべきですね。
3人が参考になると回答しました
精神疾患などではないと思いますよ。正直、甘えだと思います。
続けることがそんなに大事か? なぜ続かない事に後悔する?
障害とか心の病ではないと思います。
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