解決済み
昭和初期の職業婦人についてお詳しい方に質問です。私の母方の祖母(現在86歳)は地元の師範学校を卒業後、小学校教師として定年まで勤めていました。父方の祖父の姉は看護師として勤め、独身を通しました。 戦前の師範学校は現在の短大卒程度に相当するようですが、当時の社会では女性は一般的に良妻賢母としての資質を磨くことを優先しており、師範学校などの高等教育機関への進学率は高くなかったと聞いています。また、仕事一筋で独身を通したり、教職、医療職などフルタイムの仕事を出産後も続ける女性も少なかったと聞いています。 当時、就職のために進学したり、出産後も働き続けたり、仕事のために独身でいる女性は偏見にさらされることが多かったのでしょうか。例えば、よっぽど結婚できない事情がある、とか、よっぽど旦那に甲斐性がない、と思われたりしたのでしょうか。仕事を持つことに憧れる女性も少数派ながら存在していたのでしょうか。 ご存知の範囲で教えていただければと思います。よろしくお願いします。
3,106閲覧
まあ進学で眉を顰められることまでは少なかったでしょう。戦前までの女子教育は、よほどに裕福でないと高等科以上には進めない経済的風潮から、やっかみ半分で誹謗中傷を受けていた面が大きかったと思われるからです。 が、出産後も働き続けたり、仕事のために独身でいる女性は偏見にさらされることが少なくなかったのは事実で、現在の中国にも大都市部とそれ以外で民衆の考え方に大きな差があるように、戦前の日本でもごく限られた都市部以外では、「女は農業か家内での手工業的な仕事で稼ぐもの」との固定観念があったとみていいです。 では、その例外に当たる都市部はどうだったのか。 教師に限らず、看護師や電話交換、また郵便局や役所など公職性の強い職種に一定層の女性は欠かせない存在でしたし、またそのような職種では都市部限定ということでもなかったでしょう。そういう職種群のプラスアルファとして、民間企業内に女性が関わり始めたのが昭和初期以降だったと思われます。 また、高峰三枝子さんに代表される映画や舞台女優のきらびやかな存在の影には、職業婦人の世の中への浸透・台頭の願いも強く込められていたに違いないです。すなわち、仕事を持つことに憧れる女性を多く増やした「立役者」的存在でもあったということで。 一方で軍隊があった戦前戦中の時代では、夫に万一もしものことがあった場合の働き手は妻でしかなくなるリスク性が宿命であり、現実に外で働くしかなった場合にも偏見攻めに遭った可能性はあり、憧れ云々を抜きに働かなければやっていけなかった一定層は少なからず存在したはずです(日中戦争開始後から敗戦前後までは特に)。 ちなみに、太平洋戦争開戦後は男子が徴兵でとられて国内の労働力が決定的に不足しましたので、軍需工場中心に学生や若い婦女子は徹底的に駆り出されもして、ここでは「働く憧れ」とは無縁な半強制就労が行われもしていました。 たとえば、いまの鉄道業界に女性乗務員が凛々しく台頭している印象とはかけ離れ、「男子不在の中、労働報国のスローガンのもと仕方なく採用された」形で、女性労働者は鉄道員から炭鉱内作業までの不慣れな重労働を余儀なくされていたわけです・・・ ※お祖母様を改めて畏敬の対象となさっていただきますよう。戦前の小学校教育を男性教師からしか受けなかった人ほど、戦後の民主化以降は人格発揮の面で大いに苦しんだと思われるからです
< 質問に関する求人 >
求人の検索結果を見る
< 質問に関する求人 >
求人の検索結果を見る
< いつもと違うしごとも見てみませんか? >
求人の検索結果を見る