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職業に貴賎はないといいますが、実際時給、月収の差はあると思います。 では、学問に貴賤はあるのでしょうか?あるとすれば順…

職業に貴賎はないといいますが、実際時給、月収の差はあると思います。 では、学問に貴賤はあるのでしょうか?あるとすれば順位づけお願いします。 例:医学→法学→文学 貴賤の意味精選版 日本国語大辞典より引用 ① 身分の貴いことと賤(いや)しいこと。また、身分の高い人と低い人。 ※続日本紀‐養老元年(717)一一月戊午「詔曰、国輸二絹絁一、貴賤有レ差」 ※謡曲・笠卒都婆(1430頃)「重衡最後を見んとて、貴賤立ち囲みし中を」 〔易経‐繋辞上〕 ② 金額の高いことと安いこと。

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    学問分野別に貴賎はありませんというより 本来なら一つのものです 哲学部 諸学部の争い 二百年前までは文理系の別はありませんでした https://www.sist.ac.jp/navi/article/information/64/ https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_files/gf_18/1/notes/ja/01yoshimimima.pdf https://viewer-trial.bookwalker.jp/03/13/viewer.html?cid=70126289-6dac-42d4-b698-fe7d9b976a83&cty=0&adpcnt=7qM_t 学問イコール数学物理5教科含むのが哲学つまり学問なのです スーパービルトゥンク 今日の誤りのもと 哲学と科学の分離 文理系の分離 大学に哲学部以外は不要 文学部にある哲学科などナンセンスの話 ヘーゲルの死とともに哲学が終わった しかし学問史的にみると、1831 年にヘーゲルが死んだ後、そうした学問理 念は崩壊しました。???ですから、「ヘーゲルとともに哲学が終わった」という指 摘はある意味では正しいのです。もしヘーゲルが今も生きていたとしたら、日 本の大学で典型的に見られるような、文学部の中にある哲学なんて、哲学とし ては絶対に認めないでしょう。すべての学問を纏めるのが哲学であり、哲学部 の中に政治学科や法律学科がなければならないのであって、その逆の形はヘー ゲルにとってはナンセンスだったのです。 いろいろ 深刻です つまり学問というのは人類の知的遺産であり 一人でできるものではなく人類史全体過程の中で把握完成構築していくことが大切だと言いたいのでしょう。 即ち、弁証法哲学の根幹にあるものは、「発展するもの」(無限な事柄・織物)です。 そして、 してあり、かつ、最後に完全に これが即ち、 とは、最初から と であり、具体的かつ普遍的なものです。 という事なのです。 「発展するもの」(無限な事柄・無限な織物) 「潜在するもの」 「顕在化するもの」 「即自且対自有(or 向自有)」・「発展するもの」 そして、即自的なものとは潜在するものであり、対自的なものとは顕在化するものです。 なお、ここで出てきた普遍・特殊・個別の関係は、大論理学の第三巻の推論で出てきた少 し難解なものですが、下記の例を念頭に置くとイメージはできるでしょう。 普遍(一つの大枝) >特殊(幾つかの中枝) >個別(無数の小枝) 普遍(国家の意志) >特殊(社会の意志) >個別(個別的な意志・人格) https://books.google.com/books/about/%E4%BD%BF%E3%81%88%E3%82%8B%E3%83%98%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%AB.html?hl=ja&id=OOWfDwAAQBAJ 哲学イコールほんらい学問なのです 哲学と科学の分離の誤り 文理系の分離の誤り 実験設備の経費のケチリ べき」論が中心となってくると思いますけど、広い意味での公共哲学は、諸 学問のメタレベルで、Sein(ある)、Sollen(べき)、Können(できる)の統 合的な研究を志向しなければならないと思います。 「ポスト専門化時代」の学問理念 ここで公共哲学を学問史的に位置づけながら、「ポスト専門化」という言葉 を導入しましょう。それは、ちょうど 100 年区切りできれいに理解できます。 200 年前、ヘーゲルが生きており、ちょうど 1820 年から 30 年にかけて哲学 的学問論を展開しました。彼は、ベルリン大学の総長ですから、すごく偉かっ たわけですが、彼が唱えたのは、哲学によって諸学問を統合するという学問理 念です。つまり政治も経済も芸術も宗教もみな、哲学の中にあるのであって、 哲学が諸学問を纏め上げるという哲学中心の学問理念です。このような 200 年 前のヘーゲル的な学問理念を、私は「プレ専門化」時代の学問理念と名付けて います(この考えを私は、1999 年出版の『新社会哲学宣言』創文社で打ち出 しました)。 ヘーゲルの死とともに哲学が終わった しかし学問史的にみると、1831 年にヘーゲルが死んだ後、そうした学問理 念は崩壊しました。ですから、「ヘーゲルとともに哲学が終わった」という指 摘はある意味では正しいのです。もしヘーゲルが今も生きていたとしたら、日 本の大学で典型的に見られるような、文学部の中にある哲学なんて、哲学とし ては絶対に認めないでしょう。すべての学問を纏めるのが哲学であり、哲学部 の中に政治学科や法律学科がなければならないのであって、その逆の形はヘー ゲルにとってはナンセンスだったのです。 しかし、ヘーゲルの哲学はあまりに観念論的すぎたためか崩壊し、19 世紀 半ば以降、諸学問の実証主義化や専門化が進行しました。理学部が哲学から独 立しますし、政治学や経済学などがどんどん哲学から離れて独立し、社会学も 42 千葉大学 公共研究 第1巻第1号(2004 年 12 月) 登場するわけです。そしてそういった「専門化時代」に日本の大学制度と学部 構成が設立されたという事実を、私たちはしっかりと認識しておくべきです。 ヴェーバーの価値客観性 このように、ヘーゲル死後の 19 世紀後半以降の学問体制が、大学や学会の 学問分類に影響を与えていくということは忘れてはなりません。まさにそうし た状況の中で、1919 年にマックス・ヴェーバーは、『職業としての学問』とい う講演を行いました。その前の今からちょうど 100 年前の 1904 年に、彼はま た「社会科学と社会政策の認識をめぐる客観性」についての論文も著していま す。今年の 3 月下旬に、その 100 周年記念のシンポジウムがモントリオールで ありまして、私もそれに参加したのですが、それは、そうしたヴェーバーの学 問論に対して現代に生きる学者が現代に生きる学者がどういうスタンスを取る のかという趣旨で開かれたシンポジウムでした。主催者のモントリオール大学 は教養学部中心の大学なので、そこで私が発表したペーパーは受けがよく安心 した次第ですが、ヴェーバーの場合、「学問の専門化は時代の宿命であり、学 者はそれに耐えなければならない」という醒めた学問論が打ち出されます。諸 学問をアナクロニスティックに哲学で纏めるのはお話にならない空論だとヴェ ーバーは考えたわけです。「価値判断」とか、社会政策の「べき」は、学問外 部に属するところの「責任ある個人の決断」においてなされる「べき」だとい う思想が彼の学問論の中核にあったと考えてよいでしょう。 ヴェーバーは、他方では『職業としての政治』という有名な講演も行ってお り、いわゆる官僚化の下で権力と支配の正当性の問題の議論もしていますけれ ど、ヴェーバーは基本的に、人文社会科学者は「価値認識」は行うけれども「、価 値判断」はすべきではなく、それは学問以外の立場でするべきだ、と主張しま した。このヴェーバーの学問論は、その 100 年前に唱えられたヘーゲルの学問 論と好対照をなしています。 43 公共哲学とは何か ポスト専門化時代の公共哲学 それから 100 年経ちました。今度はヴェーバーを乗り越えなければならない 時代に入り、それを「ポスト専門化」時代と私は呼びたいと思います。今まで 日本の大学の社会科学は、おそらくヴェーバーのいう『職業としての学問』の 路線で営まれてきたと思いますが、それが行き詰まりをみせているのが現状で す。モントリオール大の学者たちも、ほぼそれを認めていました。ヴェーバー の学問論は、現代の諸問題に直面してもはや機能しなくなっていると、政治学 者や社会学者が告白していました。 では、それに代わるどのような学問理念が今必要なのでしょうか。「プレ専 門化」時代に戻ろうとするのは、明らかにアナクロニズムです。現在、哲学が 諸学を纏め上げることができるなどとは、パラノイアしか言わないことだと思 います。ではどうすればよいのでしょうか。私はこの問いに対して、専門化の 正の遺産を尊重しつつも、しかしその限界やタコツボ状態を突破して、共通の トピックやイシューを設定し、シリアスな課題と取り組むために協働しあうと いう「ポスト専門化」時代の学問理念を打ち出したいのです リベラルアーツ ビルトゥンク 一八三四年、英国科学振興学会は、自然を対象とする研究者を「自然哲学者」とよぶことは実情に合わなくなったとして、「物質世界(マテリアル・ワールド)に関する知識の研究者」の意味で「科学者(サイエンティスト)」という新造語をつくり哲学からの「科学」の独立宣言を発しました。 一八三一年に死亡したヘーゲルは、哲学と科学の分離を知りませんでしたので、彼の哲学大系は、自然科学、社会科学の対象をも包摂するものとなっており、世界全体の真理を認識する思惟法則としての「論理学」、自然の真理をとらえる「自然哲学」、人間および社会の真理をとらえる「精神哲学」という構成になっています。 哲学が経験諸科学と重なり合っていたという事実は重要な意味をもっています。というのも科学の対象となるのは客観的事実であり、科学的な真理の探究は、存在を第一次的なものととらえる唯物論の立場にたたざるをえないからです。

  • ありません。 貴賤があるとすれば自分でしてることを卑下することで貴賎が生まれるだけです。 金額が高いから風俗で働くことが貴いか… それは従事している人が卑下していたら賤しくなりますし、プロともして自信を持って仕事をしてその報酬を受けていれば貴いだけです。 学問も順位などありません。出来もしないのに医学を学んでも無駄ですし、出来るからって知識だけ入れても役立たずなんです。 自分に出来ることと向き合って納得のいく報酬が得られれば貴いのですが無駄だったり役に立たなければ卑下するしかないんです。 評価は自己ではなく周囲の評価ですが貴賤は自分の心が決めます。 周囲が貴賤を決めることって自分の向き合い方への評価です。

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