解決済み
ストア哲学の件、回答ありがとうございました。 出来たらもう一つ解答頂けたらありがたく思います。ストア哲学が共産主義的で我慢と諦観の極致にあるような哲学であると解釈したとして、これをテーゼとしたらアンチテーゼに当たる哲学や思想は一体何でしょうか? 私は社会的利益追求に対する処世術が極に向かい嫌世思想に近づけば自己陶酔という内的な満足は当然強くなると思います。古人はどのようにこのバランスを取っていったのか興味深いところです。
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それはもちろんエピクロス派、エピクロス主義、俗にいう快楽主義、快感主義です。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%94%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%B9 エピクロスは哲学の究極的目的を幸福感と快感と定義しました。むしろこちらの方がストア派に先行して普及した思想でした。 もっともエピクロスのもともとの快楽主義、快感主義とは、日常的、庶民的な衣食住の保障、日常的な生活における安心感、庶民的な幸福感を以って哲学の最大目的とする思想で、押尾学のように、下着専門店の女社長から借りた森ヒルズの一室で、脱法ドラッグを女に飲ませて、セックスに耽るとか、そういう快楽主義ではありません。 どちらかといえば、宮沢賢治の雨ニモマケズ、のような地に足についた日常的な幸福感、なにげない快感を以って至上とすることを哲学の目的としていたのです。 さらに死後のことなんかいちいち考える必要ない、無意味、一番大事なのは生きている間の日常的な幸福感や快感と、非常に割り切った考えを持っていました。 しかし植民地支配者となったローマ帝国のローマ市民にとっては、日常生活とは、奴隷を使って農業するとか、剣闘士の殺し合いを見て楽しむとか、傭兵を雇って野蛮人を征服するとか、そういうものでした。 今の日本に置き換えても、両親が投資会社の社員で超高層マンションに住む子供と、両親が伝統工芸の職人で、下町の商店街に住む子供では、日常的な幸福感に非常に大きな違いがあります。 そういう意味で、ローマ市民がエピクロスの哲学を、豪邸で豪遊して暴飲暴食や、乱交パーティや、無垢な女奴隷を調教して楽しむみたいなのが最高、みたいな非道な誤読をして勘違いしたのも、リテラシーの限界だったといえます。 しかしその後もエピクロス主義は、それぞれの社会に応じて適当に解釈され、様々な形で適当に応用され続けました。 中世ヨーロッパでは、修道院の修行僧が性欲全否定のマゾヒスティックな自己満足を追求する一方で、宮廷に仕える騎士たちは、高貴な女性との不倫恋愛を騎士道的と解釈して萌えあがっていました。また高貴な女性や、お姫様もそのような恋愛を理想としていました。 また教会主導の十字軍が大失敗に終わると、イタリア人商人たちは、美食と美術、美女や美男子を礼賛する趣味嗜好を全開させ、そこからルネサンスが始まりました。 さらにはそのへんからガリレオ・ガリレイのような天動説を全否定する科学者も誕生したといえます。 「それでも地球は動いている。」 という言葉は、決してガマンしない、あきらめない人間の言葉です。もちろん宇宙のエーテルとかも信じません。それがニュートンの万有引力の思想になります。 あとはエピクロス主義は、個人主義的な思想でもありました。普遍主義的でもありませんでした。 これも解釈によっては、他人が不幸でも構わない、という利己主義になるのは仕方がないことかもしれませんが、何でも他人や全体のせいにすればいいというもんでもありません。 エピクロス派も、ストア派もどちらも決して完全な思想ではないことが、逆にいえば現代でもどちらも生き残ってることの大きな理由といえるでしょう。
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