解決済み
1930年〜1975年頃,灯台に勤務された方だと思います。 以下は海上保安庁灯台部門に勤務していた時の上司(灯台員二世)や灯台員OBから聞いた話です。 戦後,1948年に海上保安庁が発足するする以前は運輸省灯台局が灯台の管理運営を行っておりました。 灯台員の任用 旧制中学校を卒業(卒業見込み)で灯台官吏養成所の選抜試験を受験し, 合格したら横浜桜木町にあった養成所で1年間の教育を受けます。 教育終了後,判任官に任官し各地の灯台へ赴任しました。 判任官は旧軍では軍曹以上の下士官相当の職位です。 官吏養成所には他に次のようなものがありました 水路官吏養成所:現,海上保安庁・海上保安学校・海洋科学課程 気象官吏養成所:現,国土交通省・気象大学校 逓信官吏養成所:現,国立・電気通信大学 灯台勤務 当時の灯台は本灯(灯台の光源)を灯台員の交代勤務で守っていました。 灯台員には「守燈精神」が明治期より引き継がれ灯台の機能や灯火を一時たりとも絶えさせないよう執務しており灯台構内に自宅がありながら当直勤務時は弁当を持って,あるいは奥さんが食事を運んで来て執務場所を絶対に離れない勤務です。 灯台の一般的な職員構成は次のようでした 官吏(国家公務員) 灯台長1 次席1 職員1〜3 現地採用者(灯台長が現地で採用した者,「小使さん」と呼ばれた) 雇員1〜2 灯台の暮らし 僻地の生活でしたが灯台員は旧制中学校卒で当時ではそれなりの教養とステータスを持っていましたので僻地にあっても文化的な暮らし向きであったようです。 年に1〜2度灯台視察船による灯台用物資補給があり,同時に灯台子息向けの書籍,絵本,玩具など僻地では入手困難な物も支給があり灯台員は子供の情操教育に活用したそうです。 学校は灯台からかなり遠い場合が普通で子供は年長者をリーダーにして集団登下校し,天候状況よっては小使さんが馬車で送り迎えしたと聞きます。 子供さんが旧制中学校や女学校に上がる年齢になると親元から離れ大きな町に下宿させ通学させました。中学校卒業後さらに上級学校へ進む場合は灯台員の互助団体が東京で学生寮を運営していましたので全国各地の灯台の子息が入寮し大学や高等専門学校に通い学業に励んだといいます。 僻地村落では,灯台長は小学校長や警察署長などと並ぶ地方名士で小学校の運動会や式典,地域のお祭や祝賀会の来賓として招待されたと聞きます。灯台員は地域の人から「灯台さん」と呼ばれ旧制中学校出のエリートと目されていたようです。 若い灯台員には自炊が必須のため自炊が不得意な者は現地で賄いをしてくれる人と契約し月々の食費と給金を支払って三度々々の食事の賄いを得た人もいたそうです(人を雇える額の給与を貰っていた)賄いさんが妙齢の女性だとそのままお嫁さんなる例も多く,これを「お嫁さんの現地採用」と言ったとか。 転勤 灯台員は全国(場合によっては日本統治地域を含む)を転勤しました。 次の任地の灯台に灯台視察船に便乗して赴任することも多くあったようで,視察船に乗船した家族は客船の一等船客並みの待遇でもてなされ父親が船員から丁重に扱われる様を見て「お父さんは凄い人なんだと見直した。それで自分も灯台員になろうと思った」と灯台員二世から聞きました。 戦中 灯台員は徴兵を免除され兵役に就くことはありませんでしたが海上や空の防衛監視業務に就いていました。灯台は目立つ所に建てられていますので格好の攻撃目標となり,ほとんどの沿岸灯台は攻撃を受け殉職者も出ています。沖縄の伊江島では猛烈な艦砲射撃(鉄の暴風)を受け灯台は跡形もなく破壊され灯台員とその家族が全滅しています。 戦後 GHQから灯台早期復旧が司令され攻撃破壊された灯台の復旧作業が始まります。戦前・戦中は沿岸灯台等は運輸省灯台局が管理し,港湾の灯台は都道府県の港湾管理部署が管理していましたが,それら灯台は国に移管し灯台局が管理を引き継ぎました。 海上保安庁が発足し灯台局は海上保安庁の灯台部に改組されました。 灯台員は海上保安官に任用替えされました。灯台員の待遇は従前を踏襲し灯台官吏養成所卒業者は戦前・戦中の灯台長と同格の航路標識事務所長までの昇進が約束されていました。 祖父の方も何処かの航路標識事務所長で退職なさっていると思います。
なるほど:2
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