はなんのため生きてるの? なぜ性別が女性や男性がありもし男性だったらふと思います。あなたは今の職場で満足していますか?あなたは周囲に相談できる人はいますか?いない人は共感やコメントをください。
解決済み
方は実際どういった仕事をされているのですか?
うになりました 好きなのは、ニーチェ、サルトル、ドストエフスキー、カミュの実存的ニヒリズムなどです そこで思ったのですが、哲学を勉強して学者以外にどんな仕事がありますか? 哲学じゃ食べていけないというイメージもあるのですが.... いま高校生です 英語はもう長らくアメリカに住んでいてできるので、大学では学部はまだ決めていませんが何らかの形でフランス語かドイツ語を学びたいと思っています
学で哲学を専攻した人は将来的にどんな仕事に就くんでしょうか?
教授で哲学者の中島義道氏が東洋経済に「――そもそも働きたくない人はどうすればよいのでしょうか。 働きたくない人は、実はほとんどいないと思いますね。働かず、朝から晩まで寝ていても、遊んでいても、面白くないもん。ただ、若い人にとっては職場の人間関係が大変なんですよ。そして、今の若い人は人間関係に対するスキルを磨いていないから、たちまちくたびれてしまい、会社を辞めてしまう。 私たちの時代は、とても暗い時代で生きやすかった。ほとんどの人がしたいことができませんでした。大学に行けた人は当時2割くらいでしょうね。1965年に東大に入ったのですが、授業料が月に1000円。それすら払えない人もいて、ほとんどの者はすごく貧しかった。夏には白いワイシャツと黒いズボンで3カ月通し、冬でもオーバーを着られないという学生もいました。まだ炭鉱事故があったし、東北では飢饉があって、貧乏ゆえの悲惨な事件がたくさんありました。でも、そういうきつい時代は、今の時代のような不幸がないかもしれない。おカネを儲けるなど、毎日の生活を維持することが最高の価値ですから、それで気が紛れるんです。人生の目標は「どうやったら飢え死にしなくて生きていけるか」というイメージだったのです。今の社会では、すべての人が大学に行ける。おカネにも余裕があって、自分で車も買えるし、女の子たちを喜ばせるいろいろな物を獲得しうる。すべてチャンスは与えられている。だけど負ける人がいる。これはきついですよね。こういう社会では、労働で勝ち得たものや努力して得たものには、比較的価値がなくなってしまう。われわれの世代は、豊かな生活とか、権力を持ちたいとか、有名になりたいという欲望が露骨にあったんですけれども、今の若い人は、車も液晶テレビも海外旅行も別に欲しいと思いません。 ――今、価値があるものとは? 今、すべての人が欲しいのは、広い意味の「知的能力」でしょう。成熟した脱工業社会の日本では、もはやほとんどの人には大学に行って知的職業に就くしかありません。誰にとっても要求されることのレベルがものすごく高くて、英語もコンピュータもできるのが当然になってしまっている。ところが、人間は生物でそんなに急激には進化しないから、頭の悪い人はいっぱいいるでしょうし、基本的には変わらないんですよ。 結局は、頭がいいとか、育ちがいいとか、男ならかっこいいとか、女ならかわいいとか、素質的なものに価値が置かれるようになる。 ――素質で勝負するようになると、もう能力差は最初から変えられないのでしょうか。 変えられないこともないけれども、どんな努力をしても歴然とありますね。中学、高校くらいになると必ず負け組ができるでしょう。とてもかわいらしくてみんなに好かれる子と、比較的嫌われる子が出てくる。これはもう、初めから勝負はついていますよね。 それ以上に、今はコミュニケーション能力が欠けていると、とても生きにくい社会です。今の若い人たちは大変だなあと思います。こういう社会に適応した人は楽だけれども、適応しない人はみじめでしょうね。 ――日本は高校までは強制的に集団生活ですが、大学は比較的自由です。それに慣れて、会社に入るとまた大変です。 大学はそうですね。でも、大学でもトイレで食事をする学生がいると聞きますが、ああなっちゃうのは困りますね。その背後には、やっぱりみんな一緒という雰囲気があると思います。口では「みんな違って、みんないい」と言いますが、実はこんなことは全然教えていない。日本人は集団性をものすごく尊びますが、もうあんまり実情と合わなくなってきている感じがします。 私の息子はウィーンで5年間暮らしたのですが、まず日本人学校にやったんです。うちの子は変な子だから、そこにうまく適応できなかった。先生が「ボランティア活動をしましょう」と命令すると、うちの子は「ボランティア(自由意志)だからしなくていいでしょ」と言って怒られる。スクールバスに乗らないと怒られる。ほかの子どもと一緒に食堂で食べないといけないし、サッカーの練習も1人でやってはいけない。 それで、半年後に生徒が70カ国くらいから来ているアメリカン・インターナショナル・スクールに転校させました。そこでも息子は同じことをしたんですよ。うちの子がパンを買ってどこかで一人で食べていても、先生たちは「なんでそれが問題なのですか?」と言うんですね。食事は食堂で食べてもいいし、弁当を持ってきてもいいし、食べなくてもいい。スクールバスに乗らなくてもかまわない。遠足にも行かなくてもいいんです。」と投稿しています。 https://toyokeizai.net/articles/-/14016
中島義道氏は定年前に電気通信大学を退職したので、退職金を800万円も引かれたそうです。 ちなみに、名誉教授も辞退したそうです。私が「元電気通信大学教授」と表記したのはそのためです。他のところでもそのような肩書になっているはずです。最近は「哲学塾カント主宰」というのも見かけますが。中島義道氏は東洋経済に「学問の世界でもそうですが、本当に誠実にやっている場合には、絶対に見ている人がいます。誠意を持って、仕事で能力を発揮してやっていると、少しずつ変えられるようになってくる。ホストクラブだって1番になればいい。1番のホストはかなり自由が利くと思う。でも100番とかではダメです。私は子どもの頃からとても生きにくいと感じていました。学校が大嫌いでした。特に、運動会とか遠足とか掃除とか何とか大会とか、勉強以外のことはすべてなければいいと思っていた。自分の感受性が変わっていると気づいたのは、小学校2年生くらいじゃないかな。勉強はできましたが、すごくヘンな子でした。太った女の先生が、「皆さん笑う2年生になりましょう、ワッハッハ、ワッハッハ」と笑い出したときに、私は1人だけ笑わなかった。そうしたら先生が、「中島君、なんで笑わないの?」と聞いたので「バカらしいから」と答えました。嫌な子ですよね。 今だったら何とかかんとか症候群とか、いろいろ病名をつけられたと思いますよ。でも、勉強が好きで成績もよかったから、それでもっていたんでしょうね。 私は東大時代、文Ⅰから法学部に行かずに、クラス50人で1人だけ留年して、哲学をしようと思い教養学部教養学科(科学史科学哲学分科)に行きました。東大法学部卒だったら引く手あまたですけれども、そんなところに行ったってもちろん職なんか何もない。完全な落伍者じゃないですか。もちろん、親から何から、すべての人が反対しました。私自身も、法学部を捨てるということも、留年することも、親への初めての反発だったこともあって、天国から地獄に落ちるくらいの大ショックでした。でも、あれが自分の人生の正しい選択でしたね。 それから紛争が始まったりして、大学院で留年し、退学し、さらに法学部に学士入学し、さらに大学院に再入学し修士論文を書いて、しばらく予備校教師をしていましたが……。ウィーンに私費留学したときはすでに33歳でした。1979年、ジャパンバッシングのさなかでしたが。そこで日本人学校の非常勤講師をしながら、4年半で博士号を取って東大の助手になりました。その後、仲間たちがどんどん有名大学にポストを得て、自分は全然ダメだと思っていたときに、『哲学の教科書』(講談社学術文庫)が売れて、次々に本を書くようになりました。なぜか知らないけどね。そのときはわからない。でも、いつの間にかかなり危険な決断をしてきていました。自信があったわけではなくて、いつもどうにかなると思って。妹が高校生から大学生になって、結婚して子どもを生むまで、私はずっと大学生でした。自分はこれまで引きこもりとか、マイナスのことを全部やってきたんですけれども、ウィーンに行ってから今に至るまでに体験的に知ったことは宝です。こんな体験をすると、ほとんど何も怖くなくなる。4年前、定年を迎えずに大学を辞めました。知らなかったのだけど、途中で辞めたので退職金を800万円引かれちゃった(笑)。ゆとり世代の人は生活に困らないからこそ、かなり若いうちに身体を張って自分自身の好きなこと、あるいは特別に好きじゃなくても、何か自分が有意味だと思うことに対して邁進してみて、失敗すればいいと思いますよ(笑)。そのほうが、何もしないより「失敗という体験」が残ります。私は33歳でウィーンに行きましたけど、53歳じゃやっぱり行けませんよね。 わがままをしていると、必ず人と対立するし傷つきますが、それでもなるべくわがままをすべきだと思う。そしてうまくいかなくてもいいじゃないですか。自業自得ですから。わがままを抑えている人生なんてつまらないじゃないですか。若いときを振り返ればそれなりに懐かしいけど、大変でしたね。でもマイナス面には何かプラス面が必ずある。今となっては、本に恨みつらみを書けますからね。 作家たちもそうかもしれないけれども、表現者ってむしろマイナス面を生かしている形が多いわけですよね。私も今生きていることや、死ななくちゃいけないということが納得できないから書くわけです。これまでに60冊書きましたが、まだ本当に書きたいことを何も書いていませんよ。」と投稿しています。 https://toyokeizai.net/articles/-/13940?page=5
りますか?元電気通信大学教授で哲学者の中島義道氏は「働きたくない」と思って2年間引きこもり、 ウィーン大学に私費留学したのを含めると16年間も大学に通ったそうです。中島義道氏が東京大学に入ったとき、2歳年下の妹はまだ高校生でした。中島義道氏が学習院大学に入り、そこを卒業し、結婚して子供を産んでも中島義道氏は大学生だったそうです。中島義道氏は東洋経済に「私は子どもの頃からとても生きにくいと感じていました。学校が大嫌いでした。特に、運動会とか遠足とか掃除とか何とか大会とか、勉強以外のことはすべてなければいいと思っていた。自分の感受性が変わっていると気づいたのは、小学校2年生くらいじゃないかな。勉強はできましたが、すごくヘンな子でした。太った女の先生が、「皆さん笑う2年生になりましょう、ワッハッハ、ワッハッハ」と笑い出したときに、私は1人だけ笑わなかった。そうしたら先生が、「中島君、なんで笑わないの?」と聞いたので「バカらしいから」と答えました。嫌な子ですよね。 今だったら何とかかんとか症候群とか、いろいろ病名をつけられたと思いますよ。でも、勉強が好きで成績もよかったから、それでもっていたんでしょうね。 私は東大時代、文Ⅰから法学部に行かずに、クラス50人で1人だけ留年して、哲学をしようと思い教養学部教養学科(科学史科学哲学分科)に行きました。東大法学部卒だったら引く手あまたですけれども、そんなところに行ったってもちろん職なんか何もない。完全な落伍者じゃないですか。もちろん、親から何から、すべての人が反対しました。私自身も、法学部を捨てるということも、留年することも、親への初めての反発だったこともあって、天国から地獄に落ちるくらいの大ショックでした。でも、あれが自分の人生の正しい選択でしたね。 それから紛争が始まったりして、大学院で留年し、退学し、さらに法学部に学士入学し、さらに大学院に再入学し修士論文を書いて、しばらく予備校教師をしていましたが……。ウィーンに私費留学したときはすでに33歳でした。1979年、ジャパンバッシングのさなかでしたが。そこで日本人学校の非常勤講師をしながら、4年半で博士号を取って東大の助手になりました。その後、仲間たちがどんどん有名大学にポストを得て、自分は全然ダメだと思っていたときに、『哲学の教科書』(講談社学術文庫)が売れて、次々に本を書くようになりました。なぜか知らないけどね。そのときはわからない。でも、いつの間にかかなり危険な決断をしてきていました。自信があったわけではなくて、いつもどうにかなると思って。妹が高校生から大学生になって、結婚して子どもを生むまで、私はずっと大学生でした。自分はこれまで引きこもりとか、マイナスのことを全部やってきたんですけれども、ウィーンに行ってから今に至るまでに体験的に知ったことは宝です。こんな体験をすると、ほとんど何も怖くなくなる。4年前、定年を迎えずに大学を辞めました。知らなかったのだけど、途中で辞めたので退職金を800万円引かれちゃった(笑)。ゆとり世代の人は生活に困らないからこそ、かなり若いうちに身体を張って自分自身の好きなこと、あるいは特別に好きじゃなくても、何か自分が有意味だと思うことに対して邁進してみて、失敗すればいいと思いますよ(笑)。そのほうが、何もしないより「失敗という体験」が残ります。私は33歳でウィーンに行きましたけど、53歳じゃやっぱり行けませんよね。 わがままをしていると、必ず人と対立するし傷つきますが、それでもなるべくわがままをすべきだと思う。そしてうまくいかなくてもいいじゃないですか。自業自得ですから。わがままを抑えている人生なんてつまらないじゃないですか。若いときを振り返ればそれなりに懐かしいけど、大変でしたね。でもマイナス面には何かプラス面が必ずある。今となっては、本に恨みつらみを書けますからね。 作家たちもそうかもしれないけれども、表現者ってむしろマイナス面を生かしている形が多いわけですよね。私も今生きていることや、死ななくちゃいけないということが納得できないから書くわけです。これまでに60冊書きましたが、まだ本当に書きたいことを何も書いていませんよ。」と述べています。 https://toyokeizai.net/articles/-/13940?page=5 https://toyokeizai.net/articles/-/13940?page=6
ですが、3年上の上司も、GMも社長も普通の人間としか思えなくて、いい人だなーくらいにしか思えません。おもろい人だなーとか、すごい仕事のこと知ってるなーとかすごいなーとは思うけど、尊敬まではしているかわかりません。今はできなくても自分も何年かかけて覚えていったらできるようになるだろ程度に考えています。あと仕事ができる人を別にすごいとあまり思いません。仕事を楽しそうにやってる人はすごいと思います。 これって周りの人をなめてるんですかね。 見下してるんですかね。 この考え方ってまずいですか? かと言って、考えを改めるために具体的に何をすればいいのかもわかりません。 上司ってみんな尊敬しないといけないんですかね フォーマルな会話がすごく苦手で、誰に対しても適当に力を抜いてかしこまらずに話しています。 尊敬という概念があまりなく、心のそこから本当にすごいと思えるのは、古代ローマの哲学者とユーモアがある面白い人くらいです。
回答終了
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