解決済み
ですが、3年上の上司も、GMも社長も普通の人間としか思えなくて、いい人だなーくらいにしか思えません。おもろい人だなーとか、すごい仕事のこと知ってるなーとかすごいなーとは思うけど、尊敬まではしているかわかりません。今はできなくても自分も何年かかけて覚えていったらできるようになるだろ程度に考えています。あと仕事ができる人を別にすごいとあまり思いません。仕事を楽しそうにやってる人はすごいと思います。 これって周りの人をなめてるんですかね。 見下してるんですかね。 この考え方ってまずいですか? かと言って、考えを改めるために具体的に何をすればいいのかもわかりません。 上司ってみんな尊敬しないといけないんですかね フォーマルな会話がすごく苦手で、誰に対しても適当に力を抜いてかしこまらずに話しています。 尊敬という概念があまりなく、心のそこから本当にすごいと思えるのは、古代ローマの哲学者とユーモアがある面白い人くらいです。
回答終了
学で哲学を専攻した人は将来的にどんな仕事に就くんでしょうか?
われるのですか?卒業しただけでは全く評価されませんか? エントリーシートにはそういうことを書く欄があるそうですが。私は無事に卒業できるでも評価して良いと思っていますが。元電気通信大学教授で哲学者の中島義道氏は東京大学に通っていたときに2年間くらい引きこもりになったために大学院時代を含めて10年以上かけて卒業したそうです。文科Ⅰ類に入ったために普通なら法学部に進むものの、哲学がやりたかったために教養学部に進んだそうです。でも教養学部に進むための手続きに間に合わなかったそうです。そのままでは法学部に行くしかなくなります。教養学部に行くには留年するしかなかったそうです。それで試験を受けずに留年して教養学部に進んだそうです。教養学部を卒業して大学院に入ったものの中退したそうです。三修社でアルバイトをしていて「大学院を卒業したら正社員で採用しても良い」と言われていたそうですが、修士論文が書けなかったことで正社員で雇ってもらえなくなったそうです。八方塞がりになってしまった中島義道氏は家族が寝た後、応接間を締め切り、隙間を丁寧にタオルで塞いだ上でガス栓をひねったそうです。臭いに気づいた中島義道氏の姉が起きて中島義道氏を叩き起こしたそうです。その後、今度は山本明の勧めで法学部に学士入学したそうです。それで山本明に指導教授になったもらうように頼んだそうです。山本明は断ったそうですが、中島義道氏は恥を捨てて粘ったそうです。それで法学部を留年せずに卒業すること、修士論文を1年で完成させること、博士課程には進まないことを条件に指導教授になってもらったそうです。大学院を出たときには入学から10年以上が経過していたそうです。10年以上費やしながらでも無事に卒業できただけで良かったと思うのですが。それでも就職活動をやったら評価されないと思いますか?10年もかけて卒業したということで変な人だと思われますか?
た自然言語は本来多義的なもので、精密な思考をしようとすると妨げにあることがある。すべての人が理解できて、しかも一義的であいまいなところのない理想的な言語を夢見た哲学者は多い。しかし、自然言語の論理的なあいまいさは、「」それなりの根拠を持っている。すべての言葉がきちんと定義されていて何を示すか明確になったら、この世界の手触りのようなものが失われてしまう。 A人間の好みによるものであり B世界の複雑さに対応しており C精密な思考を助けるものであり D理想的な言語が誕生するまでは
中島義道氏は定年前に電気通信大学を退職したので、退職金を800万円も引かれたそうです。 ちなみに、名誉教授も辞退したそうです。私が「元電気通信大学教授」と表記したのはそのためです。他のところでもそのような肩書になっているはずです。最近は「哲学塾カント主宰」というのも見かけますが。中島義道氏は東洋経済に「学問の世界でもそうですが、本当に誠実にやっている場合には、絶対に見ている人がいます。誠意を持って、仕事で能力を発揮してやっていると、少しずつ変えられるようになってくる。ホストクラブだって1番になればいい。1番のホストはかなり自由が利くと思う。でも100番とかではダメです。私は子どもの頃からとても生きにくいと感じていました。学校が大嫌いでした。特に、運動会とか遠足とか掃除とか何とか大会とか、勉強以外のことはすべてなければいいと思っていた。自分の感受性が変わっていると気づいたのは、小学校2年生くらいじゃないかな。勉強はできましたが、すごくヘンな子でした。太った女の先生が、「皆さん笑う2年生になりましょう、ワッハッハ、ワッハッハ」と笑い出したときに、私は1人だけ笑わなかった。そうしたら先生が、「中島君、なんで笑わないの?」と聞いたので「バカらしいから」と答えました。嫌な子ですよね。 今だったら何とかかんとか症候群とか、いろいろ病名をつけられたと思いますよ。でも、勉強が好きで成績もよかったから、それでもっていたんでしょうね。 私は東大時代、文Ⅰから法学部に行かずに、クラス50人で1人だけ留年して、哲学をしようと思い教養学部教養学科(科学史科学哲学分科)に行きました。東大法学部卒だったら引く手あまたですけれども、そんなところに行ったってもちろん職なんか何もない。完全な落伍者じゃないですか。もちろん、親から何から、すべての人が反対しました。私自身も、法学部を捨てるということも、留年することも、親への初めての反発だったこともあって、天国から地獄に落ちるくらいの大ショックでした。でも、あれが自分の人生の正しい選択でしたね。 それから紛争が始まったりして、大学院で留年し、退学し、さらに法学部に学士入学し、さらに大学院に再入学し修士論文を書いて、しばらく予備校教師をしていましたが……。ウィーンに私費留学したときはすでに33歳でした。1979年、ジャパンバッシングのさなかでしたが。そこで日本人学校の非常勤講師をしながら、4年半で博士号を取って東大の助手になりました。その後、仲間たちがどんどん有名大学にポストを得て、自分は全然ダメだと思っていたときに、『哲学の教科書』(講談社学術文庫)が売れて、次々に本を書くようになりました。なぜか知らないけどね。そのときはわからない。でも、いつの間にかかなり危険な決断をしてきていました。自信があったわけではなくて、いつもどうにかなると思って。妹が高校生から大学生になって、結婚して子どもを生むまで、私はずっと大学生でした。自分はこれまで引きこもりとか、マイナスのことを全部やってきたんですけれども、ウィーンに行ってから今に至るまでに体験的に知ったことは宝です。こんな体験をすると、ほとんど何も怖くなくなる。4年前、定年を迎えずに大学を辞めました。知らなかったのだけど、途中で辞めたので退職金を800万円引かれちゃった(笑)。ゆとり世代の人は生活に困らないからこそ、かなり若いうちに身体を張って自分自身の好きなこと、あるいは特別に好きじゃなくても、何か自分が有意味だと思うことに対して邁進してみて、失敗すればいいと思いますよ(笑)。そのほうが、何もしないより「失敗という体験」が残ります。私は33歳でウィーンに行きましたけど、53歳じゃやっぱり行けませんよね。 わがままをしていると、必ず人と対立するし傷つきますが、それでもなるべくわがままをすべきだと思う。そしてうまくいかなくてもいいじゃないですか。自業自得ですから。わがままを抑えている人生なんてつまらないじゃないですか。若いときを振り返ればそれなりに懐かしいけど、大変でしたね。でもマイナス面には何かプラス面が必ずある。今となっては、本に恨みつらみを書けますからね。 作家たちもそうかもしれないけれども、表現者ってむしろマイナス面を生かしている形が多いわけですよね。私も今生きていることや、死ななくちゃいけないということが納得できないから書くわけです。これまでに60冊書きましたが、まだ本当に書きたいことを何も書いていませんよ。」と投稿しています。 https://toyokeizai.net/articles/-/13940?page=5
成課題が出て書いてみました。自分自身読んでみたのですがインパクトがありません。 どこを直していいのかもわからないのでアドバイスお願いします。 人と話すことが大好きだ。私は一般常識から多くのことに対して知恵のある人間になりたいからである。いままで知識や知恵がなく、できないことが多くあり恥ずかしかった。知識がなければ知恵を使うことができないと考える。話すことにより知らない知識、経験様々なことを得ることができる。フランスの哲学者ブレーズ・パスカルの「知恵は知識に勝る」という言葉がある。これはただ知っているだけではほとんど価値はない生きる知恵として活かすことに大きな価値があるという意味がこもっている。だが初めから知恵を使うことはできないので私は会話を通じて知識を得ることを心掛けている。 また多くの人と話すことにより知識以外にも様々なスキルを身につけることができた。一つ目はコミュニケーション能力である。大学に入り様々な社会人の活動に参加させてもらった。はじめは人と話すことに緊張することも多くあったが多くの人と話すことで緊張することもなくなった。むしろ自分から話しかけに行き質問や世間話をすることが多くなった。私が特に心掛けているのが私の両親より年上の人と話すことである。人生経験が豊富で多くの知識を持っているからである。話すことにより私の知らない世界を知ることができこれからの人生に大きく役に立つと考えるからである。今まで学生の身分でしかなかったが大学を出れば社会人という身分になる社会人なら知っておかなければいけないことも多くある。それを知ることができる良い機会にもなるからである。 二つ目は行動力である。気になったことはできることならすぐにでも始めることが良いと知った。学生の頃しかできないことが多くあることを知り何事も今しかできないと考えるようになり行動に移すようにしている。今はヒッチハイクの旅に出てみたいと考えている。危険も多いかもしれないが様々な人と出会い経験したいからである。人と話すことだけでここまで多くスキルを身につけることができた。今後これを強みに社会に出て役立てていきたい。
倫理をとりました。最初勉強した時はカタカナばかりで覚えるのが辛いなぁとか思っていたのですが、様々な哲学者の真理についての論を見ているとすごい面白いなと思いました。人間はこんなにも深い事を考えるのかと哲学に真剣に興味が湧いてきました。そして哲学入門書を買い、読んでいるとますます面白さに惹かれどっぷりとはまってしまいました。 元々は警察官になりたかったのでつい最近までは法学系の大学に進み警察学校を卒業し警察官になろうなどという進路を考えていたのですが哲学が頭から離れず倫理や哲学関係の進路も考えてみたいと思い始めました。今までの進路研究が水の泡になるかもしれないのでいろいろ大変だなぁと思っています。 回答お願い致します。
りますか?元電気通信大学教授で哲学者の中島義道氏は「働きたくない」と思って2年間引きこもり、 ウィーン大学に私費留学したのを含めると16年間も大学に通ったそうです。中島義道氏が東京大学に入ったとき、2歳年下の妹はまだ高校生でした。中島義道氏が学習院大学に入り、そこを卒業し、結婚して子供を産んでも中島義道氏は大学生だったそうです。中島義道氏は東洋経済に「私は子どもの頃からとても生きにくいと感じていました。学校が大嫌いでした。特に、運動会とか遠足とか掃除とか何とか大会とか、勉強以外のことはすべてなければいいと思っていた。自分の感受性が変わっていると気づいたのは、小学校2年生くらいじゃないかな。勉強はできましたが、すごくヘンな子でした。太った女の先生が、「皆さん笑う2年生になりましょう、ワッハッハ、ワッハッハ」と笑い出したときに、私は1人だけ笑わなかった。そうしたら先生が、「中島君、なんで笑わないの?」と聞いたので「バカらしいから」と答えました。嫌な子ですよね。 今だったら何とかかんとか症候群とか、いろいろ病名をつけられたと思いますよ。でも、勉強が好きで成績もよかったから、それでもっていたんでしょうね。 私は東大時代、文Ⅰから法学部に行かずに、クラス50人で1人だけ留年して、哲学をしようと思い教養学部教養学科(科学史科学哲学分科)に行きました。東大法学部卒だったら引く手あまたですけれども、そんなところに行ったってもちろん職なんか何もない。完全な落伍者じゃないですか。もちろん、親から何から、すべての人が反対しました。私自身も、法学部を捨てるということも、留年することも、親への初めての反発だったこともあって、天国から地獄に落ちるくらいの大ショックでした。でも、あれが自分の人生の正しい選択でしたね。 それから紛争が始まったりして、大学院で留年し、退学し、さらに法学部に学士入学し、さらに大学院に再入学し修士論文を書いて、しばらく予備校教師をしていましたが……。ウィーンに私費留学したときはすでに33歳でした。1979年、ジャパンバッシングのさなかでしたが。そこで日本人学校の非常勤講師をしながら、4年半で博士号を取って東大の助手になりました。その後、仲間たちがどんどん有名大学にポストを得て、自分は全然ダメだと思っていたときに、『哲学の教科書』(講談社学術文庫)が売れて、次々に本を書くようになりました。なぜか知らないけどね。そのときはわからない。でも、いつの間にかかなり危険な決断をしてきていました。自信があったわけではなくて、いつもどうにかなると思って。妹が高校生から大学生になって、結婚して子どもを生むまで、私はずっと大学生でした。自分はこれまで引きこもりとか、マイナスのことを全部やってきたんですけれども、ウィーンに行ってから今に至るまでに体験的に知ったことは宝です。こんな体験をすると、ほとんど何も怖くなくなる。4年前、定年を迎えずに大学を辞めました。知らなかったのだけど、途中で辞めたので退職金を800万円引かれちゃった(笑)。ゆとり世代の人は生活に困らないからこそ、かなり若いうちに身体を張って自分自身の好きなこと、あるいは特別に好きじゃなくても、何か自分が有意味だと思うことに対して邁進してみて、失敗すればいいと思いますよ(笑)。そのほうが、何もしないより「失敗という体験」が残ります。私は33歳でウィーンに行きましたけど、53歳じゃやっぱり行けませんよね。 わがままをしていると、必ず人と対立するし傷つきますが、それでもなるべくわがままをすべきだと思う。そしてうまくいかなくてもいいじゃないですか。自業自得ですから。わがままを抑えている人生なんてつまらないじゃないですか。若いときを振り返ればそれなりに懐かしいけど、大変でしたね。でもマイナス面には何かプラス面が必ずある。今となっては、本に恨みつらみを書けますからね。 作家たちもそうかもしれないけれども、表現者ってむしろマイナス面を生かしている形が多いわけですよね。私も今生きていることや、死ななくちゃいけないということが納得できないから書くわけです。これまでに60冊書きましたが、まだ本当に書きたいことを何も書いていませんよ。」と述べています。 https://toyokeizai.net/articles/-/13940?page=5 https://toyokeizai.net/articles/-/13940?page=6
真理のための闘争」(2012年)は朝日カルチャーセンターとの闘争について書かれています。 後半では「哲学塾 カント」で朝日カルチャーセンターとの闘争について議論しています。そこには35歳のフリーターの人も出てきます。その人は正社員で働いていた時期もあったそうですが、辞めてからフリーターだそうです。他人と付き合わなくて良いことから警備の仕事をしているそうです。「警備員が殺されるニュースを聞くと、怖くなって辞めたくなる」などと言っていました。
91~100件 / 1,277件中
< 自分のペースで、シフト自由に働ける >
この条件の求人をもっと見る
1
続きを見る
2
3
料理長に必要とされるスキル・資質は?やりがいや大変なところも解説
仕事を知る
料理長は、レストランやホテルなどの調理場の責任者として、料理の品質を維持し、スタッフを指導する重要なポジ...続きを見る
2024-11-13
花農家とは?主な仕事内容や年収、目指す方法も紹介
農家の中でも「花」に特化した「花農家」は、どのような職業なのでしょうか?基本的な仕事内容や、年収について...続きを見る
美術館スタッフの仕事内容とは?資格なしで働ける職種や面接のコツも
美術館スタッフの魅力は、美術作品に囲まれながら仕事ができることです。学芸員や司書がメジャーですが、特別な...続きを見る
企業保健師になるには?必要なスキルや条件、仕事内容をチェック
企業保健師とは一般企業で勤務する保健師のことで、正式には産業保健師といいます。従業員の健康管理に携わる仕...続きを見る
福祉ネイリストとは?働き方や将来性、相性の良い資格を紹介
高齢化が進む日本において、高齢者を対象とする美容サービスの需要が高まっています。「福祉ネイリスト」もその...続きを見る
産婦人科看護師の役割とは?仕事内容・年収・活躍の場を紹介
産婦人科看護師の役割や仕事内容は、他の診療科目とどのような違いがあるのでしょうか?産婦人科看護師が担う一...続きを見る
介護助手はどのような仕事?仕事内容や資格の有無など基本知識を紹介
介護業界において、介護助手は現場を支える大切な職種です。介護助手として働く上で、知っておきたい情報を紹介...続きを見る
クリニックの受付は大変?業務内容から必要とされるスキルまで解説
クリニックの受付は、診療を円滑に進めるのに大事な役割を担っています。コミュニケーション能力をはじめ、さま...続きを見る
答えが見つからない場合は、質問してみよう!
※Yahoo! JAPAN IDが必要です