解決済み
一浪後に入学した早稲田大学政治経済学部で仮面浪人を経験し、47年前の1975年3月にどうしても入学したかった京大経済学部に入学した者です。自分の仮面浪人体験は1974年5月ごろからの48年前のことであり、入試制度や大学での単位制度が今とは大分違いますので参考にはならないと思います。また大変長文になってしまい申し訳ありません。当時の大学進学率は38%程度で、現在の55%程度に比べると低い時代でしたが、今のような少子化の時代ではなく18歳人口は160万人程度とはるかに多かったので受験競争はより激しい時代でした。従って高校卒で大学には進学せずに社会に出られる方々も多く、大学に進学するだけでもありがたいという時代背景がありました。仮面浪人が今の様にある程度受け入れられている時代ではなかったことをご理解ください。 下記に参考までに当方の仮面浪人体験を記しておきます。だいぶ昔の話で恐縮ですが、高校の同期生で早稲田理工→東大理Ⅰ、当初就職した会社の同期生で慶應経済→東大法の成功例があります。 私が実質二浪、会社の同期生が実質三浪でしたが、当時の就職には影響はありませんでした。 現在どちらの大学で勉強されているか存じませんが、京大の建築学科の卒業生には、黒川紀章氏や高松伸氏がおられますし、その他にも多方面で活躍している方々が多いと思います。再受験される価値はあると思います。貴殿の成功をお祈りします。 以下私の体験談です。 1.早稲田大学政治経済学部の雰囲気 当時の早稲田は現在のように文科省の指導による入学定員の厳格化をしておらず、また推薦入学者の枠も僅少だったので旧帝大や一橋の不合格者を見越して一般入試の合格者を決めていたようです。従って政治学科と経済学科を合わせて一学年の定員は1000名を超えていました。また学舎も狭くマスプロ教育の悪弊で学生全員が希望するゼミナールに参加できないとか、自分のやりたかった経済史の内容がもう一つだったということが入学後にわかってきました。入学当初は京大のことは忘れて、早稲田で四年間全力を尽くそうと思っていましたが、このような学内の様子に鑑み、ダメもとで1974年5月の連休明けから京大への受験勉強を再開しました。 当方の通っていたクラスの雰囲気について学生の階層が三階層ありました。 ①京大、東大、一橋等の難関国立大学を落ちて早大政経に入学した学生。 ②早大専願や私立大学のみの専願・併願で入学した学生。 ③早大高等学院や早実等からの内部進学者や推薦入学者。 ①の階層に属する学生が仮面浪人をする傾向がありますが、②③の階層にはほとんど見られず、早稲田愛が強いので仮面浪人を裏切りとみなしてしまう傾向がありました。なお①の階層の学生が学力は最も高く、中にはリヴェンジを実現すべく仮面浪人している人がいました。その一人に京大入試会場で偶然顔を合わせて一瞬動揺しました。ただ残念なことにその方を京大入学後に学内で見かけることはありませんでした。また別の一人は東大の文Ⅱを落ちて仮面浪人をしていたようで、後期から本部キャンパスで見かけなくなりました。これに気付いた②の階層の学生が「早稲田に入ったのに再受験は卑怯だ。」と言っていました。 そのため私は下宿先や学内での人間関係に配慮して極力仮面浪人していることを悟られないように留意しました。私は両親や東京在住の伯母、東大生の親友、高校の担任の先生の五名を除いて、仮面浪人で再受験することを秘匿していました。当時の早大生では当たり前だったクラス全員での春秋の早慶戦観戦についても、親が上京してきた等のもっともな理由をこしらえて参加しませんでした。正直言って再受験を知られたくなかったので色々な人間関係の問題(大学、下宿先等)に気を遣い、現役時や一浪時に比べて満足いくほど集中した受験勉強時間が取れなかったことが辛く、娯楽等の息抜きは殆どできませんでした。 2.大学の勉強と受験勉強の両立 勉強方法ですが、早稲田大学には極力毎日通学し極力受験科目に縁のある人文科学系の履修登録をしました。結果としてフル単の45単位を取得することができました。履修した人文地理学、歴史学、日本文学等は大学の講義としては格調高く、しかも教授陣も実力ある方々だったので、ある程度受験勉強の参考となりました。 講義の終了後、港区の都立中央図書館に直行し早大の図書館では再受験秘匿のため全く受験勉強はしませんでしたが、毎日の平均の受験勉強時間は各科目とも難関大学の過去問や市販の受験問題集を中心として2時間程度で、3時間できればよい方であり、現役時や一浪時と比べてかなり少なかったです。講義のない日や土曜日、日曜日は都立中央図書館で開館から閉館まで集中して受験勉強していましたので、この時は実質的に1日当たり平均8時間程度はできました。結果論としては効率よく計画的に受験勉強を進めるように配慮した生活を送らざるをえなかったので、一定のメリハリは付きましたが、その当時の自分としては現役の時や一浪時と比べて満足いくまで受験勉強ができませんでした。従って自分の学力が落ちているのではないかとの不安の方が大きかったです。また再度の受験に失敗したら大学にも下宿先にも居場所はないのではないかとも思えて心理的な不安感に苛まれていました。1974年中は親友の東大生に時々会いに行ったり、都内の博物館等を月一度ぐらいは見に行って気分転換をはかっていました。 3.予備校や進学塾等の活用について 予備校や進学塾等の活用ですが、東京の駿台予備校等の夏期や冬期の講習、当時大阪にあり一浪時にお世話になったYMCA予備校についても冬期講習や受験直前対策講習には全く通いませんでした。都内の駿台予備校についてのみ本番の試験の練習のため、成績を度外視し二回ほど模試を受けに行きました。東大文Ⅱ志望で受けてみた1975年1月の模試はB判定だったと記憶しており、その成績で学力がそれほど落ちていなかったことをやっと確認できました。しかし不得意科目の数学の成績が今一で相当な不安感がありました。 但しその頃は国立大学には今のような共通テストがなく、東大には一次と二次試験がありましたが、京大の入試は3月初旬の5科目(国、数、英、理、社)一発勝負だったので、こうした受験方法でも合格できたのではないかと思います。また共通テストがない時期でしたので大学の後期試験に専心できましたが、当時は今と違い学生運動の華やかなりし時代で、学生のストライキによりほとんどの試験がレポート提出に切り替わったり、出席点で単位認定とツキがありました。従って1975年1月下旬に大阪に戻ってきてから3月初旬の京大の入試直前までは毎日10時間程度みっちり勉強でき追込みが効きました。これまでの入試成績では国語や数学が自分の不得意科目で、2月以降こちらの勉強時間を多くとった為に得意の社会科(世界史、地理)については赤本で過去の出題傾向を分析し山をかけました。 実際の試験では、三回目の京大入試ということもありましたが、国数英が過去問よりも易しい問題だったことで勢いに乗り、社会科の山(東洋史、地理)が当たったこともあって入試成績の開示はしませんでしたが、かなり好成績で入学できたのではと自負しております。 なお、直近の仮面浪人の体験談で仮面先の大学等の人間関係や勉強法等については下記のホームページが参考になると思います。是非ご覧になってください。いずれの方々も相当な苦労をされています。 仮面浪人ナビ http://kamen-navi.com/category/interview/
なるほど:2
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