解決済み
上司は部下より偉いのですか?上司は部下を管理しています。上の立場ほど責任も大きいかもしれません。しかし下の立場は軽んじられがちです。 中世ヨーロッパの封建的契約制度を鑑みると、上下の立場というのは、ある種の「契約関係」であり、その場限りのものです。 その背景にリスペクトや感謝があるかどうかは関係ないです。 組織の中の一つの関係性。 教え、指示し、評価する。従い、行動する。 人間の営みとして、一つの関係性の中には、色々なものが含まれるし、それは尊敬や畏怖や、感謝であったほうがより良いということは言わずもがな。 しかしながら、それ故に「上司は部下より偉い」となるのはおかしい。 と思います。 当たり前のように共有される「上司は部下より偉い、部下は上司を敬うべき」という盲目的な見解に違和感を覚えます。 (何度も言いますが、個人的なリスペクトだとかは否定しません。むしろ推奨されるべきだし、人間関係を円滑に育む上で、それぞれが果たすべき努力もあるでしょう。だけど、それを上司と部下の関係にかこつけて部下に「のみ」強要するのは解せない。) 自分はまだ高校生で、一度も社会に出たことのない若輩者です。 そんな輩が何を偉そうに、と思われるかもしれません。 でも社会に対する純粋な疑問です。 どうか真面目な回答お願いします。
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ドイツの哲学者E・カントは『啓蒙とは何か』の中で、上官の命令が間違っていると感じた場合の部下の採るべき態度を論じています。 この場合、上官の命令が間違っていると判断した場合でも部下は一旦命令に服さねばなりません。そうでなければ軍隊は機能しないからです。 しかし、軍務が終了した暁に部下は上官命令の是非を論じ、必要とあれば弾劾することも出来るとカントは言います。何故ならその場合、彼(部下)は自らの理性を公的に使用しているからだ、とカントは言うのです。 ここで日本におけるカントの可能性を考えてみましょう。会社でも役所でも構いませんが、部下が上司の命令の是非を公開の場で論じる光景が想像できるでしょうか。若しくはそのような光景がかつてあったでしょうか。 断言はできませんが、私が考える限りではそのような光景は想像し難いしまたそのような光景もおそらくほとんど無かったと思われます。もしこのようなーつまり部下が愚痴としてならともかく公開の場で上司や所属組織を論じるー光景があった場合、それは上司に対する個人攻撃と受け取られる可能性があるからです。 では何故カントは日本ではありえないことを18世紀の段階で主張することが出来たのでしょうか。もう一度、カントが主張している根拠を見てみましょう。 彼(部下)は自らの理性を公的に使用しているからだ カントは理性の使用の在り方について、公的使用と私的使用の別を設けているのです。カントに依れば上官命令に服するという意識の発露は理性の私的使用なのですが、上官命令の是非を論じるという行動は部下が世界市民という立場で行動するという意味で公的使用となります。 人間の行動は公私の別があるのだ。ここにカントが理性の公的使用を主張しうる根拠があるのですが、ひるがえって日本でカントの可能性がほぼありえないことを考えてみた場合、日本には公私の区別が意識のレベルでは存在しないことになります。 >上司は部下より偉いのですか? 上司と部下はー軍隊と会社は違いますがー命令と服従の関係にあると言ってよいでしょう。この点においてカントの生きたヨーロッパと日本は異なりません。 しかし日本では公私の区別が原則として存在しないので、地位上の立場の違いが人格の違いとして意識される状況が存在しうるのであり、このような状況が「上司は部下より偉いのですか?」という質問を生み出していると思われます。 念のために言っておくと、ヨーロッパでも最初からカントが述べているような状況が存在した訳ではありません。 >中世ヨーロッパの封建的契約制度を鑑みると、上下の立場というのは、ある種の「契約関係」であり、その場限りのものです。 >その背景にリスペクトや感謝があるかどうかは関係ないです。 中世ヨーロッパの封建関係を「契約」として理解するのは、かなり現代風に理解した結果であり、全く間違っているとは言えないまでもあまり正しいとは思われません。 まず封建関係は上下関係である事を想起下さい。質問者が「契約」と述べた関係は近代的な雇用契約ではなく封建契約であり、つまり人格的な支配を伴うのです。 例えば封建関係にある臣下が結婚する場合を考えてみましょう。現代であれば理論上は会社の部下は上司の意向など気にせず、結婚相手を自由に探し結婚することが出来ます。部下は上司に人格的に隷属しているわけではなく、上司は雇用関係において指揮命令権を持つのみであり、支配を行うわけではないからです。(ただし先述したとおり日本では公私の区別がはっきりしないので、部下の結婚に上司の存在が関わることがあります。結婚式に上司が参列するなどは一例です) 封建関係にある臣下は結婚するに際し主君の意向を無視できません。主君の対立する相手や陣営から結婚相手を迎えるような場合、中世では結婚は公的な問題となるからです。 このような支配と隷属を前提とする関係は騎士・貴族だけでなく、中世社会を生きる人なら誰でも知っている関係でした。都市市民でも市民と奉公人・市民と隷属農民の関係は封建契約だったのです。 このような状況から如何にしてカントの主張する公私の別を伴う人格的に自由な人間関係が生まれたのか。 あえて一言で言えば、古代末期にムーヴメントとしてのキリスト教が既存の人間関係を初期化してしまうほどの影響力をヨーロッパ人に対して持ったからだ、とだけ述べておきます。ご興味があれば 阿倍謹也『西洋中世の男と女ー聖性の呪縛の下で』筑摩書房 ピーター・ブラウン『古代末期の形成』慶應義塾大学出版会 をお読み下さい。
中世ヨーロッパは、厳然たる身分制度がありましたからね。 部下や上司がとか言う以前に。 その常識の中での部下と上司の関係です。 つまりは、ベースとして、「上のもんは上じゃっ!言うまでもないわ」・・ってことがあったということです。だから敢えて、書かないのです。 後世になってあなたが、上下関係なんかなかったんじゃないの~~?っていうのは、もう何百年もたってるからピンと来てないだけです。
役割の違いであって人間性に 上下があるわけではないと思います。 行き過ぎた管理は非難されて然るべきです。
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