たぶん我が国の古典(の中でも教訓や、教義となるような物)では、あまり実学となるものを一般の人には易く簡単には伝えようとしなかったからでしょうね。どうでもいいような物語りや、随筆は、垂れ流しで公開されてはいますが…。 但し、平安時代の終わり頃からは、もう、例えば同じ藤原氏の一族に対しては歌論書や、教義を伝授しました。『口事秘伝(くじひでん)』と言います。同じように自分が発案したようなことは、日本人の場合いには、あまり書物に残して他人に大っぴらに公開しようとはしなかったろうと思われます。 よく、人間国宝になっているヒト達が、技術や業績をあまり書物に残したがらないのも、こうした我が国の因習に拠るものでしょう。直接の一子相伝となる訳けですね。 ①点には、自分の流儀(斯道)に興味のない者に対して詳しく教えたって仕方がないという気持ちが最初からあったからでしょうし、②点目には、惧らく、せっかく自分や師匠が開発したものをヒトには知られまい…としたからでしょう。 そういった意味では、我が国のマスターはヨーロッパよりも偏狭だった…と言えるかもしれませんけれどね。 扨て、ご質問に帰りますが、先に触れた歌論書(藤原俊成親子の「髄脳」(解説書)というくらいの意味です)や、室町時代の観阿弥・世阿弥親子の『風姿花伝』、江戸時代初期の『葉隠』、宮本武蔵の『五輪書』などは、中世から近世にかけてはけっこう教訓を含んだものとしては参考になるのではないかと思いますね。 江戸時代に入ると(特に元禄時代の1700年くらいになると)、中世までのそうしたコダワリよりも、活版印刷という商業ビジネスに毒されて来ますので、なんでもかんでも出版して儲けようということになり、大抵の思想書は一般に流出して来るようになります。 古代、中古時代以来、口事秘伝として守り続けて来た家、一族以外の思想書などは、全て江戸時代には公開されることになるのですね。明治時代になっても頑強に口事秘伝を貫いた神道の吉田家や、ちょっと奇異ですが、竹内家などもありましたがね。
なるほど:1
日本の古典にも、個人として正しい生き方はどうあるべきかを教える本は多数あります。ただ、私が思うには、人間の悪の本性とか人間集団の実相とかを透徹して見据えた上で論じられた古典は、日本には少ない。どうしてもリアリズムに徹し切れないところがあるように思える。 有名な古典でも、せいぜい個人の生き方レベルにとどまってしまう気がするのです。 ただし、それは別に悲観すべきことでも何でもなくて、世界の大古典に学べば済む話ではあります。 とはいうものの、日本でもいくつかは挙げられるとは思います。 頼山陽『通議』 ・・・・・・・・・日本史を通しての政治のありかた 貝原益軒『益軒十訓』 ・・・・・・君子訓、大和俗訓など教訓集 『二宮翁夜話』 ・・・・・・・・・二宮尊徳の言行録
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