解決済み
映画としての原作にもなった、「あさま山荘事件」で、 「警視庁本庁の警備部門の課に、警視正として出向していて、当時の後藤田正晴警察庁長官(後の自民党衆議院議員で、故人)から、「あのなぁ、野中君(当時の野中庸長野県警本部長)はよ、こう言う警備やった事無いでなぁ、すまんが軽井沢迄出かけてよ、野中君を指揮して来いや…!?」と命令されて、結局日露戦争の児玉源太郎状態で、軽井沢で指揮を取った」佐々淳行さん(元キャリア組の警官)の、プロフィールに… 「昭和50年(1975年)、当時全国植樹祭の開催間際だった三重県で警備を万全にする為、「警察庁勤務で、警備部門に強い人を…?」と言う内容で、警備部門中心に三重県警本部サイドから、リクエストあったとかで、その直後の人事異動で三重県警本部長として、着任した…」と言う内容で、載せている本が幾つかある模様です。 そこで、質問したいのは… 「三重県警本部長だと、「比較的小さい規模の、県警本部長」クラスになるか? 又、この役職クラスだと階級は、どの辺りになると思われるか?」に、なります。 それでは詳しい方、ヨロシクお願い致します…。
回答して頂き、有難うございます…。 今回の「三重県警本部長」が… 「キャリア組の警官として、 佐々さんがどの県警かは別で、唯一県警本部長として、勤務した職歴になる」と、思います…。
1,166閲覧
三重県警は中規模クラスに位置づけられています。 平成6年発行の「三重県警察史 第四巻」でも、中規模県警であると記載されています。 (中規模クラスに格上げされたのは昭和47年ころ。佐々氏が本部長になる3年前です。) また、三重県警察の警察官の定員については、条例で3017人と定められています。 これは全国で23番目に多く、14ある大規模警察本部を除けば9番目の規模になります。 (なお、三重県警の歴代本部長は佐々氏を含めて34人いますが、全員警視長です。) あと、1975年に三重県で開催されたのは「第30回国民体育大会(三重国体)」です。 (三重県で全国植樹祭が行われたのは1980年。1975年は滋賀県で開催。) この国体を警備するために佐々氏が異動したとされています。 ただ、この異動に関しては「左遷」と見ている人もいます。 (「ひめゆりの塔事件」で、沖縄国際海洋博の警備責任者を解任されたからです。)
>「三重県警本部長だと、「比較的小さい規模の、県警本部長」クラスになるか?・・・ 全国の道府県警察本部長の階級は必ず『警視監』又は『警視長』になります。 この中で ・大規模道府県警察本部長=必ず『警視監』→『政令指定都市』を包括するか国際空港などがある県。(14道府県) ・その他の中小規模県警察本部長=『警視監』又は『警視長』 となりますが、歴代の三重県警本部長はすべて『警視長』です。(佐々さんを含む) 佐々淳行さんのことはWikipediaに詳しい経歴が乗っていますがこれを読むと警察庁入庁以来、一貫して警備、公安部門のエリート街道を歩まれてきたことがわかりますが三重県警本部長への就任は特別な栄転ではないと思います。 佐々さんは『あさま山荘事件』後、警察庁警備局に戻り調査課長、外事課長、警備課長をを歴任した後、三重県警本部長に就任されていますから、警察庁のエリートキャリアとしては順当なコースと思われます。 佐々さんの経歴で異色かつ異例なのは、この後で三重県警本部長のあと、警察庁刑事局参事官を経て防衛庁(現在の防衛省)に出向しますが・・・なんと退官までの9年間、一度も警察庁に戻っていません。(普通、他省庁との人事交流では2、3年で復帰します。・・・警察庁長官、警視総監のどちらかのトップを目指すなら?・・・) 防衛庁では長官官房長や防衛庁の外局である防衛施設庁長官を歴任され退官しますが、直ぐに内閣官房に新設された内閣安全保障室の初代室長に就任されます。(おそらく警察庁、防衛庁に精通している実績からの就任と思われます。)
< 質問に関する求人 >
警視庁(東京都)この条件の求人をもっと見る
求人の検索結果を見る
< いつもと違うしごとも見てみませんか? >
覆面調査に関する求人(東京都)この条件の求人をもっと見る