解決済み
新年度の人事で旦那が福島県に転勤が決まりました。現在 山形市に住んでおります。小学生の子供がいますが、放射能漏れ、除染した地域にこれから、住むのがすごく不安です。 ましてや、今は良くても何十年後かに甲状腺などに何か発症しないか不安で落ち着けません。 旦那は単身赴任してもいいといってくれてますが、現賃貸マンションと単身赴任の生活など出費がかさむことを考えると踏ん切りがつきません。 同じような境遇、また、経験されたかた どうなのか教えてください。 尚、福島県に住んでいる方にはこの手の質問は失礼と存じますがお許しください。
旦那の会社の方がきました 子供の20年後の事とか気にしないのか? 今はいいよ。 放射能の数値が明らかに高いのは心配ではないのか?とか 不動産の方にも訪ねたら 旦那さんの単身赴任が多く、除染をしても 親御さんは気にしてるからこない人が多いんです。って言われてとても選択が分からなくなっています 理由は
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今福島で子育てしていますが、ご心配のような話や子供に影響があったという話は一切ないですよ。 情報統制なんかもまったくありません。 ただ心配しなくても大丈夫ですと言っても心配なものは心配だというのはわかります。 福島に来て安心して生活するには、放射線について正しい情報を知るということです。 これはなかなか難しいですが、これをしないとまず間違いなくあなたがストレスでおかしくなります。 というよりも、福島で生活するうえではこの心配によるストレスが一番の大敵です。 放射線の影響は科学的に見てもまずないですが、このストレスは体の不調や精神の不調に直結します。 ネットでの一方的な情報に振り回されるとろくなことになりません。 特に、他の回答者も指摘されていますが、一部の方がデマ情報を長々と貼り付けています。 その方は煽ることが生きがいのようなので気にされないほうがよろしいですよ。
福島県のどこですか? はっきり言って山形市だって南会津よりは原発に近いんですよ。放射能は人間が考えた県域で広がるわけじゃないんですよ。
「ある自主避難者の証言」 私の知恵ノートから回答致します。 4歳の子供とふたりで、今年1月に福島中通りから新発田市に自主避難してきているお母さんのお話です。 私は、2013年1月、福島県中通りO村から4歳の子供と二人、新発田市に自主避難してきました。 O村には、祖母、父、母、兄を残してきました。 私のふるさと、福島県安達太良郡O村は、福島第一原発のほぼ真西約40キロのところに位置しています。 盾のように連なる安達太良連峰西側の緩やかな扇状地の上に拓かれた村でした。 扇状地に湧く豊かな水ときれいな空気と東南方向から降り注ぐ日光を利用して、米、野菜を始めとする農業が栄え、農村としては珍しく、わずかずつですが、人口も増えていました。 他のところはみんな合併してしまいましたから、安達太良郡で今でも村として残っているのはO村だけです。 私はそのことをとても誇りに思ってきました。 でも、今は飯館村に次いで汚染が激しいところです。 これから私がお話しすることについては、人によって意見の相違があり、絶対だとは言えません。 あくまでも、私個人の見方だと思って聞いてください。 私は、原発や放射能のことについてほとんど何も知りませんでした。 ただ、以前、私が勤めていた会社の上司が脱原発だったこともあって、他の人よりはほんの少しだけですが、意識していたかもしれません。 その上司がよく言っていたことは、「ベントという言葉を聞いたら危ない。すぐ逃げろ!」でした。 でも、私がその言葉を聞いたのは、事故が起こってから数ヶ月も経ってからでした。 私が引っ越しを考えた最初のきっかけは、3月12日に1号機にヘリコプターで放水(注:自衛隊ヘリコプターによる放水は2011/3/17、3号機に対して行われた)しているのをテレビで見たときで、それから、汚染水をオガクズで止めるとか言っているのを聞いて、ますます怖いと思うようになりました。 でも、震災で水道もガスもストップしていたときは、みんな外で行動していたわけですよね。 3月15日から25日まで、私は群馬県の親戚の家に避難していたのですが、そのとき、赤城山が真っ黄色になっているのを見て、とても不気味に思ったことを覚えています。 後で聞いたことですが、花粉というのは放射線を浴びると大きくふくれるのだそうです。 あんなに離れたところにも放射能は届いていたのですね。 今でも後悔していることは、なぜあのときすぐに引っ越さなかったかということです。 そうすれば、子供を被爆させないですんだのにと思うと、とても罪悪感を感じます。 すぐに決断できなかった理由は、私がそのとき仕事のために1年間の在宅業務の研修を受けていたからです。 私はシングルマザーなので、自活するためにどうしても収入が必要でした。 放射能への恐怖はありましたが、どこか認めたくないという気持ちもあり、少なくとも1年はがんばろうと思ったのです。 でも、その頃から子供の具合がだんだん悪くなっていきました。 病院に連れて行くと、風邪と診断されました。 でも、いつまでたっても咳が止まらず、だるそうにしており、反対に悪くなっていくようでした。 あるとき、除染の作業をしていた人から「ここは口で言えないほど汚染されている。俺ならこんな所には絶対に住まない」と言われました。 役場ではガイガーカウンターの貸し出しをやっていましたが、役場の人から「地表から1メートル以上離して、30分以上そのまま立っていなければいけない。それにあくまでも目安で正確な数値は出ない」と言われました。 妹夫婦が、すでに新発田に引っ越していて、電話をすると「今すぐ、引っ越しておいで」と言います。 反対に、祖母や父母や兄は「大丈夫だ。神経質になるな」と言いました。 私は、シングルマザーで、そのことで迷惑をかけたし、そのぶん世話をするねと約束していたので、それからだんだん放射能の不安を家族に話せないような雰囲気になりました。 特に、祖母は幼稚園バスまで子供の送り迎えをしたりして、それを張り合いにしていましたから、私は子供の体のことと板挟みで両方を裏切っているように感じました。 村の中で、だんだん放射能について口に出せない雰囲気が広がっていきました。 うっかりそのことを、友人に話して、「そんな気弱なことでどうするの」と怒られ、人間関係にもヒビが入っていくような気がしました。 国は、除染、除染と言っていますが、それは除染して土を保管しておける休耕地のような空き地を持っている家の話です。 私の家は、そんな余分な土地はありませんから、除染はしてもらえず、そのままにしてあります。 風の強い日には線量計の数値が跳ね上がっていました。 子供は、もともと外で遊ぶのが好きな元気な子で、ドングリとか草とか石ころとか大好きなのですが、「遊んじゃだめ!」と叱るのが辛かったです。 家族は家で食べる野菜を全部作っており、それを子供に食べさせるのが楽しみです。 その頃から、畑の周りのタンポポがみんな変で、50株も60株も同じ所から出て、その茎が全部くっついて異様に太くなってそこに見たこともないような大きな花が咲いて、気持ちが悪かった。 田んぼに稗が大発生しました。 あんなことは今までありませんでした。 野菜も今まで見たこともないような形のものがとれるようになりました。 桃、トマト、トウモロコシ、タケノコとかそういうものを、巨大なシイタケとか食べさせようとするんです。 家族は子供に食べさせるのが楽しみなので、食べないととても悲しそうな顔をするんです。 干し柿なんかも、食べさせられました。 他の家では、野菜や食物を作るのをやめて、花の栽培に代えたところもありますが、私の家族は頑固で、食べ物を作り続けました。 そのころ、保養説明会というのがあって、そのなかで、放射能の危険があるので、干し柿は食べない方が良いというお話がありました。 私は、このとき、初めて「ああ、放射能のことを心配してもいいんだ」と思って、そうしたら、知らないまに涙が出てきました。 それで、形の変な野菜の放射能を計ってもらおうと思って、役場に持っていくと、「役所が安全だと言ってるのが、わからないのか!母親がそんなことでどうするんだ!」と、逆にどなられました。 結局、持っていった野菜は計ってもらえませんでした。 放射能は禁句という空気はますます強くなり、幼稚園では外遊びを奨励、給食の食材も地元のものを使うという信じられないことが起こるようになっていきました。 子供は気がつくといつも風邪を引いた状態です。 鼻血をしょっちゅう出すようになり、いつも体がかゆいと言って掻いていました。 桜祭りのときに、子供が裸足で水たまりに足をつっこんだんですが、数日経つと、足が腫れて膿がたまりました。 医者は「風邪ではこんなふうにならないなあ」と言いましたが、放射能の影響については質問することができませんでした。 病院でも、放射能を口にすると、鼻で笑われるような雰囲気がありました。 クリスマスの日、朝から意識が朦朧として胃腸炎だと言われました。 子供の視力がおかしいのに気づいて、医者に連れて行くと、屈折異常弱視だと診断されました。 そのときから、子供はビール瓶の底のような厚い眼鏡をかけるようになりました。 赤ちゃんからセシウムが検出されたお母さんの話を聞きました。 母親としての喜びも奪われたような気がして悲しかったです。 水道局で働く友人から5月にビーフシチューからセシウムが出たとか、9月に福一牛乳を飲んだ子供が全員嘔吐したとか言う話を聞きました。 そういう話は口止めされているんですが、耳を塞いでいても自然に入ってきます。 毎年、幼虫からカブトムシを孵している人で、みんな奇形になって死んでしまったとか、50代の人で腸にポリープができたり、穴があいたとか、病院に行ったり入院するようになった人の数は間違いなく増えていると思います。 全く健康だった人が心筋梗塞になって急死したり、葬式が増えました。 私の母も、心筋梗塞で倒れました。 今までも心臓に問題があったことなどない人です。 今はペースメーカーをつけています。 バンダジェフスキー博士の講演で、博士が放射能と心臓病の話をされたとき、ああ、これなんだと思いました。 私自身の健康もおかしくなっていきました。 そういえば、ずっと マスクもしないで外で過ごすことが多かったのです。 だるくて布団から起き上がることができなくなっていきました。 仕事中にも眠くてしようがないのです。 吐き気がして、駐車場に車をとめて、ぼんやりしていることが多くなっていきました。 医者は鬱だと言い、薬が処方されましたが、全く効きませんでした。 かえって目眩がひどくなりました。 体にいつも弱電流が流れているような感じで、単純な作業をしようとしているのにやり方がわからない。 気分転換のつもりで買い物に行って入ったお店で、そのまま訳が分からなくなって何時間も突っ立ているようなことが起きるようになっていきました。 1ヶ月休職しましたが、1ヶ月経っても症状は悪くなるばかりでした。 それで、どうにもならなくて新発田に来たのです。 もう、福島に帰るつもりはありません。 新発田の人は親切ですが、後ろ指を指されているような後ろめたさは感じています。 私はカラオケが好きなのですが、福島ナンバーで駐車場にとめていると、なんだか申し訳ないようでいつも目立たない所にとめるようにしています。 外食するときもそうです。 服を買っても、皮肉を言われるような気がします。 避難者同士の気持ちもバラバラになっています。 明るく振る舞うようにしていますが、先のことを考えると真っ暗になります。 http://inventsolitude.sblo.jp/article/78443656.html
私ごとではありますが震災時に山形へ一時避難した事があります。勿論もう福島に帰ってきましたが。 放射線凄く不安ですよね。ですがまずは冷静に。 県では毎年数回は各学校で甲状腺検査やホールディーカウンターを実施しています。中には「福島の子の甲状腺癌が増えてる」なんて言っている方がいますが、福島は他県より徹底して検査しています。その中にはそのまま気づかずに一生を過ごす位特に影響の無い甲状腺異常があります。潜在的な患者が他県より増えるのは当たり前です。現に韓国では健康診断に甲状腺検査を導入した事で甲状腺異常の方が増えたとか。 福島市辺りはもうそろそろ除染が完全に終わる頃ですね・・・ 除染もそのうち終わるでしょうね。 県は各放射線観測スポットからの放射線量をリアルタイムで公表しています。(福島県のホームページ) 今1度ご考え下さい
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