「努力が苦手」ではないのに、そのように思わされてしまうことがあります。何事も一生懸命に根気よくできる能力や教養があるのにもかかわらず、いよいよ本番だ、いよいよ当日だ、とういうときに、逐一、邪魔や妨害をされますと、それまで積み上げてきた努力が無になってしまうわけですが、それを、知らず知らずのうちにやられてしまうことがあるのです。 隣人に、熱心な新興宗教信者があって、日々、窓を全開にして、わんわんと読経を行い、その親族にあっても、読経のテープをエンドレスで延々と、やはり窓全開で流したりしている事例があります。彼らにとっては、読経に時間を費消し、布施に金を浪費するという努力を積み重ねている中において、それら努力をしていない隣人の方が幸せであるならば、理不尽だ!許せない!と思ってしまうことはあるようです。係るおかしな信者と関わりをもたれますと、一生懸命にやっていることや楽しくやっていること(仕事でも趣味でも特技でも)を毀損されてしまうことになりかねません。彼らにとっては当方の方が笑顔で楽しく生活をしていることは、教義が嘘であることがバレてしまうため、許せないと思ってしまうようです。 私が常に思うことは、他者と比較をしないということです。他者との比較において、幸福か不幸かを測るようなことをしますと、得てして、他者を貶めれば、相対的に自分が上がるのだ・・といった、よこしまな思考が出て来てしまいます。そんな考えを全国民が持つようになったら、一億総揚げ足取り社会、一億総不幸社会になってしまうでしょう。コンプレックスを持っているような人ほど、他者にコンプレックスを植え付けようとか、よこしまな考えで近づいてきたりするものです。 例えば私は、時折、マラソン大会に出場をしています。最上位を狙える実力あればよいのですが、そこまでではなく、狙うものは、自己記録であったり、完走であったり、体調や練習状況によって目標を決めるわけです。努力をすることは大変重要なことで、生きる活力になるものですから、どんな目標でも良いので自分で計画を立てて、それを実現させるべく努力をすること、それを楽しむことがよいのだと思うものです。学校生活などでも、他者との競争が発生することがあります。競争することで自信を持てればよいのですが、喪失をしてしまうと、やる気を失ってしまうことがあります。従って、子育ての場合であれば、なにをやっても人並み以上でいられるような準備・教育を親がしっかりと行い、他者から比較対象とされることがあっても、劣等感を持ってしまうことの無い子供時代を子供に過ごさせること、それは親としての責務であろうと思うものです。私自身はその意味に於いて、親に感謝をして今を生きています。 私が成人して色々な人と接してきて思うことは、子供時代にコンプレックスや劣等感を持ってしまったような人ほど、他者との比較に走る傾向があり、他者を貶めることで相対的に自分が上がれる・・かのような思考になりやすいのではないか、ということです。反面教師としたい事例です。 追記として、上記、新興宗教の事例は、10年ほど前にも、知恵袋に、80年代後半から続いている被害体験を、記録として残すべく、投稿したことがあるのですが、何者かによって「違反報告」でもされたのか、消されてしまったことがあります。事実を書いているのですから、無かったことにしないでもらいたいと思います。一部ではありますが、これまでの被害実態を投稿いたしました。 違反方向でもされたのか、勝手に消去がされてしまったようです。被害実態・事実を書いているのですから、無かったことにしないで頂きたいと思います。
努力って何ですか?やりたい事、やるべき事があって、目標にこれだけのことが必要っということがあれば、それは当たり前の事では。努力というには、結果に対して使う言葉です。頑張って結果を出した事に対して初めて努力しているです。
そもそも楽しくて徹夜して仕事してる感じの人たちを傍から見たら大変な努力をしてるように見えるだけですよ。
少数ですね 成功者も少数ですから
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