解決済み
差別や偏見と向上心。 例えば、低学歴の人、障害のある人、容姿の悪い人に対して差別や偏見を露骨に表したり、苛めたりするのは良くないことです。 しかし、差別や偏見って、少し向上心と繋がるところもありませんか? 勉強できない人や、容姿の悪い人を見て反面教師にして、自分は勉強頑張ろう、綺麗になろうと思うこともあるでしょう。 それに例えば、東大卒の人が中卒を見て、あまりにも綺麗な人があまりにも容姿の悪い人を見て、多少なりとも偏見を抱くことは仕方ないと思います。 偏見や差別を露骨に人前で表すことは良くないと思いますが、心の中まで共産主義みたいに何でもかんでも平等じゃ、他人との競争もなくなり向上心も生まれない気がします。 ある意味、心の中で少し差別心があるから人間上を目指せることもあるんじゃないかなと思います。 みなさんどう思いますか?
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努力や向上心って、 まず、自分はこうありたい、という理想の姿に対して、 今の自分には何が足りないのか、 どんな勉強をしなきゃいけないのかを考えて、 それに対して行っていくもの、持つべきものだと思う。 その時に、自分の理想に近い人の真似をしてみるとか、 自分より高い位置に居る人を鏡にするなら分かるんだけど、 自分より低い位置に居る人を反面教師にするのはちょっと違う。 人間性でも仕事でも、 要は、自分で自分をどうしたいのか?って事。 低学歴でも頑張ってステータスを築いた人も居るし、 高学歴でも一向に使えない人も居る。 美人でも性格がひん曲がってれば皆から嫌われる。 (最初だけはチヤホヤしてくれるだろうけど) 例えそうでなくとも、皆から愛される人間性であれば、 どこへ行っても人は寄ってくる。 学歴や容姿だけを物差しにすると痛い目に遭うよ。
なるほど:1
なかなか答えの出ない問題ですよね。 私は、質問者様が書かれていらっしゃるような思いの「自覚」を持っていれば、それでいいんじゃないかなと感じます。 偏見や見下す心を持たない人って、世界じゅうを捜しても、きっといないだろうし、持っているからこそ、人間なのだろうと思います。 要は、容姿が悪かったり、頭が悪い人を、虐めて当たり前、と思ってしまったら、人間としてダメじゃないかなと。 容姿が悪い、頭が悪い、というのは、ある程度、その人の一つの側面であって、頭が悪いから、生活ができないわけではないですし、醜いから、性格が悪いわけでもないですし。 外見だけの偏見や差別をした時は、その人をよく知ろうと努力すると、価値観が少し変わることもあります。 自分はあの人に対して、偏見を抱いたんだ、という自覚を持つことが、それ以上、自分の中の偏見や差別を増長させていかない一つの方法なんじゃないでしょうか。
私は低学歴高校、低学歴大学出身です。 同じく低学歴高校を出たある同級生から 「親は子供に迷惑を掛けるべきではない」と、 私の病気の母親の事をなじられました。 彼は、私の母と私に対して、 「子供の看病や介護を受けながらの生活を放棄するべきだ」 という彼独自の意見を、押し付けてこようとしました。 加えて、「自称・大人になって立派になった」と主張する彼 と話し込んでいた時間が全部、無益、無駄に消費され、 彼との交流に費やした時間分だけ、母親に目をかけてやることが できず、母親の健康管理が行き届かず、ついに母の2本目の歯が 欠けました。 私はもはや彼には恨みしかありません。 彼と無駄な交流さえしなければ、私がもっと母親に気を配って あげられて、母の歯も欠けなかったかもしれない。 歯医者環境の不安がある中で、母の歯や体の健康管理を 投げ打ってまで、麻薬中毒者の彼と話し込む必要など、 どこにも無かったのだと。 今では、彼が無職で親の遺産を繰り崩して生活しており、 家賃の支払いに困っていることが、うれしくてたまりません。 彼には「おまえのほうこそ、他人に迷惑をかけずに、 他人の世話にならずに生きてみたらどうだ?」と言ってやりたいです。 私のお母さんだけが健康を害し、ひどい目にあっているのに、 彼がのうのうと生きていることが、何が何でも許せません。 彼の現在の境遇と、私の現在の境遇を見比べながら、 知識、教養、生活レベル、経済レベル・・・ありとあらゆる 差をつけて、私の方がいい生活をしているのだと見せつけて やりたいです。 毎日、彼を恨んで、彼がどこまで落ちていくのか、 対して、私がどれだけ這い上がっていけるかを、 比較しながら、その比較を私自身の心の支えにしています。 「差別や偏見って、少し向上心と 繋がるところもありませんか? 」 私の場合は、差別や偏見というより、 「彼を叩き落としたい」「彼が社会的にもっともっと転落すればいい」 という心情です。それが自分の向上心につながっています。
自分を奮い立たせて向上心を持ちたいのなら、自分よりも下のレベルの人を対象にするのではなく、自分よりも上のレベルの人に追い付き、追い越す気持、意思を持った方が、効果があると思いますね。 言葉は悪いですが、低学歴の人、生涯のある人、容姿が悪い人を見て、差別や偏見を持つのは人間としてどうかなとは思いますが、彼らを見てそれを反面教師にして頑張ろうと思うのであれば、それはあなたの心の中に『あのような人にはなりたくない』というやはり差別、偏見があるからではないでしょうか? ということは、やはりあなたの心の中には、「今の自分は幸い彼らよりはましだ、だから今以上、落ちないようにしなければ・・』という偏見があるということでしょう。『今以上落ちたくない』というあなたの安心のための基準にしているように思えますね。 それよりも、自分を高めたいと思うなら、やはり自分よりも上のランクにいる人を目標にして頑張ってみるべきではないでしょうか?最初から、下のレベルの目標では、いくら向上心があってもあなたの頑張りには限度があるでしょう? 例え、頑張りに失敗しても、その差別、偏見の対象になっている弱い人たち以下にはならないと、あなたの気持の中ではすでに安心しているのですから・・・。 差別心の対象を、あなたより下のレベルの人に向けるのではなく、自分よりも上のレベルの人に向ける方が、頑張った結果でも喜び、達成感が違うと思いますね。 ハンディのある人を頑張りの基準にするのは、間違っているように思います。もちろん、彼らを差別や偏見するのは言語道断であることは間違いではありませんが・・・。
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