解決済み
理系学生です。古典漢文の必要性がわかりません。塾・予備校や学校の教師が職を失いたくないから、古典漢文はいいよと洗脳してるようにしか思えません。英語では4技能(読む、書く、聞く、話す)が社会では求められています。ですが古典漢文は4技能すべて必要ないと感じます。一般教養としてあったほうがいいという意見がありますが、それなら別に入試科目にいれなくていいと思います。道徳の授業かなんかでやったらいいのでは? 就職活動の時では、古典漢文の4技能ありますって言ったってプラスになるわけでもないですし、どちらかと言えば中国語とかの第二外国語の4技能もってる人のほうが100倍魅了的でしょう。 古典漢文に必要性があるかないかあなたの意見をお聞かせください。(できれば多くの人意見を求む(´・ω・`))
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必要ないと思います。昔の文章を読むことは必要かもしれませんがわざわざ当時の言葉のまま読むことはないのではないかと思います。 まあ数年後には古文漢文は高校生の必修科目から外れますし必要ないという結論でしょう。
「理系学生です。古典漢文の必要性がわかりません。」 私は理系でITの仕事をしていますが、ソフトウェアを作る仕事を続けていて意外と役に立った科目が2つあります。 歴史と漢文です。 高校で教えているコトは、社会に出てから役立つ要素を持っています。ただ、それを役立てるには、役立つような使い方をする必要があります。どんな有能な道具も、使えないとゴミになってしまいます。 * 「それなら別に入試科目にいれなくていい」 古文・漢文を入試科目から外す大学は増えているようですね。 すると、生徒は古文・漢文を勉強しなくなります。古文と漢文を学ぶと、次のような効果があることが分かっています。 ・現代文の表現力が向上する ・現代文の読解力が向上する ・(漢文の場合)、外国語の習得力が高まる 「古典漢文に必要性があるかないか」 個人的には必要性は感じません。高校生が古文や漢文を勉強しないで現代日本語の能力が低下しても、私には関係ない話ですから。やりたくない人にやらせる必要はないでしょう。 教育関係者は、そのような考え方をしてはいけないのでしょうね。勘ですが。
国語科教免保持者、古典研究者です。(狭い世界ですので絞ることは避けます) 生きていく上で実務的に必要かと言われれば絶対に必要ありません。私も研究以外の日常で使ったことはほぼありません。 この話題の時にいつも思うのが、今、魚の切り身が海を泳いでいると思っている小学生がいるという話です。 魚が海を泳いでいる生き物で、その命をもらっている、と言うことを全く知らなくても魚は食べることができます。しかし、小学校の給食(ご飯)では、必ず「いただきます」と言わされ、米を育て、鶏を飼ってその卵をいただく、自然学校で魚を捕まえて焼いて食べる、という類の指導をします。それは、自分の知らない、見えない所で命をいただいている、と言う根底にある物を忘れてはならならず、また、ヒトとして生きていく上で知っておかなければならないことだからです。 この構造と同じだと思っています。 確かに今、日本語を母国語として日常的に使用するには古文漢文なんて必要ありません。しかし、その根底にある古文漢文がある、と言うことは日本人として知っておかなければならないと思います。 先程の話で言う、現代日本語は魚の切り身、古文漢文は海で泳ぐ魚、それを学ぶと言うことは、「いただきます」と言わされ、米を育て、鶏を飼ってその卵をいただくということと同じだと思っています。 それは日本人として日本語を第一習得言語として使っている文化であり、日本人であるための義務だと思っています。古文漢文を中高で学んだ日本人が使う第一言語である日本語と海外の人が会話するために学んだ日本語は、海外の人がどれだけ流暢な日本語を喋ったとしても、それらは全く違うとおもいます。古文漢文を学ぶことが、言語において、日本独自の文化であり、また"第一言語として日本語を用いる"日本人たる所以だと思います。 日本語の根底であるので国語で扱います。決して道徳ではありません。 確かに役に立ちません。それらを知らなくても日本語は使えるし喋れます。最近は日本の文化を誇るということが非常に少ないと思います。日本語も立派な文化です。「マジ卍」「エモい」などと言った言葉は、私からすれば日本人としての文化・威厳を自ら踏み躙っているように思います。その根底がないのだと思います。決してそのような人間になってほしくないのですが… 日本は実学&理系の国なので、実生活に必要ない古漢は切り捨てられる運命なのです。 長々とすみません。それでもやはり理解されないと思います。仕方ないと思います。
なるほど:2
端的に言えば、必要です 国際的に価値があるとかなんとかですが、 どんなに価値あるものでも、使わなきゃただのガラクタです。そういう趣味の人が研究する以外の使い道はありません。保存し、継承する必要はありますが、それでも1000中999人は古文漢文なんて役に立ちませんし、勉強しているときにもそう思っています。 しかし、だからこそ受験には古文漢文が要る。 日本の社会で求められるのは、協調性です。 自分にとって必要ないから求められてもやらない、なんて人間は駒として価値が低いのです。 なので、大学や会社などは、同じだけ数学ができる人間が2人いても、やりたくない事でも求められればやる方が欲しい。従順なほうが都合がいい。 じゃあそれをどう測ろう? 簡単です。 みんなが嫌う無意味なことを全員にやらせて点数をつければ「嫌なことでも努力できる人間」が上位に来る。 学力だけで人を差別することを是としている社会が、今の日本以上の「道徳の授業」を求めるはずもありません。必要なのは都合がいい従順な人間です。それを測るカリキュラムが必要だったわけです。それが「古文漢文」 古文漢文は「人間を選ぶ側」にとって必要なのです。
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