解決済み
近頃パリオリンピックが開催されていると思うのですが、試合(ゲーム)ではほとんどの場合、「勝者」と「敗者」が決まるといった二面性があると思います。ですが、試験というものにはそういった表現での、二面性はないと考えています。 なぜなら、「自分との戦い」でしかなく、正しい努力を続ければ限りなく100%に近づき、「合格」という結果を得られると考えています。 資格試験を例に挙げます 正しい努力を続けなかった者のみ(例外を含める)が不合格の結果となり、きちんと計画をたてて努力を続けた者はその人個人で考えた場合、100%にがぎりなく近い状態で受験をし、合格となると考えます。 つまり、試験において不合格となる者は、正しい努力をせず不合格となるか、もしくは正しい努力をしたのにも関わらず、やむを得ない状況で不合格となったか、の2パターンだと考えられます。その2パターンにならないようにすると同時に、徹底した努力を継続していけば、合格という結果を限りなく100%に近い状況で得られると思いませんか。 何が言いたいのかというと 「試験には二面性はなく、その人個人で見た場合の努力値の差が、試験結果の合否に関係しているのではないのか」 ということについてどのように思うかをお聞きしたいです。 私の簡単な暇つぶしです。 時間に余裕のある方は、ご回答よろしくお願いします。
37閲覧
二面性よりニ極性の方がしっくり来るのですが、取り敢えず二面性とします。 試験も合否という二面性の概念がある以上、二面性がないという表現は荒唐無稽です。 努力をすれば限りなく合格に近づくという理論は、同様に勝負の世界に於いても言えます。 同じく、勝負の世界にも自分との戦いはあり、つまり普段の自分を出すために自分の感情に打ち克つ戦いですが、反対に、試験にも他人との戦い、つまり変動する合格平均点との差があります。 正しい努力をせず、またはやむなく不合格となる2パターンは、当然試合にも言えることです。 もっと単純に考えれば、試合も試験も広義では『競争』の一つなので、必ず二面性があり、努力によって臨む結果に限りなく近づけます。 勉強にも合格しやすいテクニックがあるように、勝負にも勝ちやすいテクニックがあるからです。 それを正しい努力とするならば、それでも努力だけでは埋められない差もあります。 それが知能指数や運動能力の差であり、そういった様々な素質の違いが個性でもあります。 ですから、ご質問への回答は 試験にも二面性はあり、努力値の差が合否に関係する場合は、合格点が固定されていて、且つクリアした人が全員合格となる時に顕著に現れる。 だと思います.
資格試験にも一定点数以上で合格のものもあれば上位何人が合格というものもありますから、一概には言えないだろうと思います。
< 質問に関する求人 >
オリンピック(東京都)この条件の求人をもっと見る
求人の検索結果を見る
< いつもと違うしごとも見てみませんか? >
覆面調査に関する求人(東京都)この条件の求人をもっと見る